■ [怒り]怒(その1)
本日は、頭に来るニュースがありました。報道によれば、政府の教育再生会議は、いじめを苦にした児童・生徒の自殺が相次ぐ事態を憂慮し、再発防止のための緊急提言の取りまとめに向けて調整に入ったそうです。提言によればいじめをした児童・生徒を出席停止とするあります。怒ると同時に、力が抜ける脱力感を感じます。
蟻を観察すると真面目に働いている蟻がいる一方、遊んでいる蟻もいます。その割合は一定です。そこで、真面目に働いている蟻を集めると、前と同じ割合で遊ぶ蟻が生じます。逆に、遊んでいる蟻を集めると、前と同じ割合で真面目に働く蟻が生じます。つまり、我々は「真面目な蟻」、「遊ぶ蟻」がいるように考えてしまいますが、そのような個(蟻)特性はなく、あくまでも集団の構造の中で両者が生じます。
私自身も同じような実験をしました。理科実験での子どもを観察すると真面目に実験している子どもがいる一方、遊んでいる子どももいます。その割合は一定です。そこで、真面目に実験している子どもを集めると、前と同じ割合で遊ぶ子どもが生じます。逆に、遊んでいる子どもを集めると、前と同じ割合で真面目に実験する子どもが生じます。つまり、我々は「真面目な子ども」、「遊ぶ子ども」がいるように考えてしまいますが、そのような個人特性はなく、あくまでも集団の構造の中で両者が生じます。だから、集団の構造を変えずに、集団の構成を変えても意味がありません。
我々はどうやって解決したか、実に単純なことです。「みんなで実験せよ」ということを求めたのです。いや正確に言えば、「みんなで実験して欲しい」と教師が望んだのです。それだけでみんなで実験するようになりました。その詳細は、「学び合いの仕組みと不思議」(東洋館出版社)に書きましたし、その学術データは教科教育学会と臨床教科教育学会に発表しました。
どうも教育再生会議は、「いじめる子」、「いじめられる子」という個人特性があると仮定しているようです。ところが、実際は、そんなのありません。いじめが生じる構造があるのです。だから、「いじめる子」を出席停止にしても、構造が同じであれば、残った子の中に別のいじめる子が生じるはずです。本当の解決策は、いじめの原因となる教師の中にある心を変えねばなりません。
私はいじめの原因は、教師が「みんな」という意識の欠如だと思います。もう少し説明すれば、以前のメモに書いたように、協同的ではなく競争的な環境に子どもを置くからです。全員の多様性を認めず、成績という一つの基準で序列化し、あたかも、それが人間の価値に関係すると考える心がいじめを生みます。例えば、「かけっこ」で全員で手を繋いでゴールするという配慮などは典型です。何故、全員で手を繋いでゴールする必要があるのでしょうか?早い子がいたって、遅い子がいたって、いいじゃないですか。我々の顔にあるホクロの数は違います。それだから、子どもの顔に墨の点を書いて、「みんな同じ数にしよう」なんていう教師はいないでしょう。でも、ゴールを一緒にするという教師は、心の中に「早い子は偉い、遅い子は駄目」と暗黙にあります。その心があるので、それを打ち消すために、手を繋いでゴールする配慮をします。そんな配慮をしたとしても、子どもは早い子はだれで、遅い子は誰であるかを知っています。教師が偉い/駄目と心にあれば、それは子どもに伝染します。
みんなは違っていい。そして、一人一人が違ったスタート点と到達点がある。ただ、その方向はみんな一緒。みんなで、いっしょに頑張ろう。そんなことを本気で教師が信じられれば、イジメはなくなります。そして、それを信じ、子どもに語ることが教師の仕事であると我々は信じています。