■ [大事なこと]感激二つ
以前から、同志各位にお願いしていることがあります。
我々の『学び合い』の広報活動を一人で担うには重すぎます。是非、研修会や本をどんどん私と関係なく企画、実行してねとお願いしております。本日、ある方のブログを読みながら、その萌芽を感じました。嬉しい。
以前、ある同志から教えてもらいました。ある教育に関する運動が、大きな運動になったのは、多くの実力のある方が、「かって連」のように自律的に動き出したからだそうです。今の時代、統制された運動より、分散化された運動の方が良いに決まっています。その分散化された運動を統制するのではなく、サポートするような組織とは何かを考えたいと思います。
もう一つの感激があります。
ある同志から、以下のメールをいただきました。
『今度、○○研修が本校で開かれ、私が示範授業をすることになりました。学び合いでやると言ったら、普通の授業を見せてやってくれないかと頼まれました。子どもが不幸になるようなことは進んでできないので嫌です。とは言ってませんが、着任当時、僕はこういう考えで授業をやりますといってあるので学び合いの授業を公開します。提案については、しなやかに、したたかに(でしたっけ)駆逐していきます。ありがとうございます。』
「子どもが不幸になるようなことは進んでできないので嫌です。」というのは、我々の共通した気持ちです。が、世のしがらみで、そうとも行かないのが渡世です。が、実力があれば、それを通すことが出来ます。頼もしく思います。
■ [大事なこと]陶冶価値
あることを学ぶ意味を陶冶価値と言います。認知心理学や『学び合い』を学ぶと、一般的に信じられている各教科の陶冶価値が、馬鹿馬鹿しくなります。例えば、理科や数学は論理的思考力や科学的概念の育成が陶冶価値だと思われています。しかし、思い出してください、理科や数学の先生が職員会議で常に一番論理的でしょうか?(理科や数学の先生ごめんなさい、ちなみに私はもともとは理科人です)おそらく、理科や数学の先生以外ならば、そうではないことはご存じだと思います。確かに数学・物理・化学・生物学・地学等の自身の専門においては論理的だと思います。しかし、それ以外の課題に関しては、必ずしも論理的ではないというのが認知心理学の領域固有性(文脈依存性)の知見です。そして、日本人の圧倒的大多数は数学・物理・化学・生物学・地学等の専門領域において論理的であることを求められることは殆どありません。つまり、算数、数学、理科で学ぶ論理的思考力や科学的概念は、日本人の圧倒的大多数にとっては、殆ど意味がないと言うことです。
また、国語や英語はコミュニケーション能力の育成を旗印に上げますが、客観的に見て、この二つの教科の一斉授業ほどコミュニケーションの無い教科はないように思います。コミュニケーションのツールは学んでいますが、コミュニケーションはありません。英語で子ども同士や、子どもと教師での「How do you do?」で始まる、会話にバカバカしさを感じなかった人がいるでしょうか?想像してください、様々な醤油の組成を暗記させてはいるが、一度も料理をさせない料理学校があったとしたら。そして、その学校の先生は、自分たちは料理を教えていると主張していたとしたら。あはははは
体育は健康な体作りを目指していると言われます。しかし、高名なスポーツ選手は必ずしも長命ではないはいことは、既に亡くなった二三の選手の名前を思い出せば確かめられるでしょう。健康に繋がるのは体育で学ぶ競技スポーツではなく、普通に歩く方が重要だと思います。よく「健全な精神は健全な肉体に宿る」と言われますが、それを最初に言ったと言われるローマの詩人ユヴェナリスは、実際には健全な肉体を求めることは、健全な精神を蝕むことをことを警告したものです。ところが、どこかのだれかさんが、意図的に前後の文章を無視して、全く逆な意味に使い始めました。
もうこれだけでも日本の数学、算数、理科、国語、英語、体育の先生の多くを敵に回してしまっているので、このあたりにしますが、その他の教科も同じです。
我々は、上記とは全く異なった陶冶価値を見いだしています。どうやって見いだしたか、それは『学び合い』を通してです。子ども達が必死になって、その教科を学びたいと願い、そして、その有効な手段として『学び合い』を選択したとき、感激を与えてくれます。それは、ある時は「止まらぬ感涙として」、ある時は「今まで俺は何をしていたんだ」という虚脱、ある時は「全身鳥肌となる、畏怖」、様々です。
全てを書いていると長くなるので体育だけを書きますが、体育の陶冶価値は
第一は、出来る奴と、出来ない奴の差が大きい。それゆえ、そのような子ども達の中で関係を結ぶ経験をするには最適な教科だと思います。これは、算数・数学・物理学と同じです。
第二は、自らが自らに課すルールを作り出し、そのルールの是非が直ぐにフィードバックできると言う点です。ある意味で、社会科よりも公民教育には意味があると感じています。
なぜ、そう思うかと言えば、『学び合い』において上記の場面において、最も素晴らしい姿を子ども達が見せてくれるからです。もちろん、実践研究が進めば、もっと多くの素晴らしさを子ども達は教えてくれるはずです。