■ [ゼミ]夢
2006年8月31日のメモに書かれてあるように、我がゼミでは1時間半の全体ゼミで「27秒も」しゃべると注意を受けてしまいます。本日は実に4時間も修士1年のゼミ生の方々と話しました。なぜなら、目標の設定の段階では教師は語るべきだからです。そこでは「夢」を語り続けました。常識人であるゼミ生の皆さんに対して、一般的には荒唐無稽と思われる「夢」を語り続けました。そして、ゼミ生の皆さんが「それは出来ない」という常識的な理由を、どんどん論破し続けます。
今は夢です。しかし、今では常識となっていることの多くは、数年前までは荒唐無稽の夢でした。が、夢を願うことによって、それは実現することが出来ます。宝くじのうたい文句じゃありませんが、買わなきゃ当たりません。そして、今までの勝率で言えば、十割なんです。
一度出来ることが分かると、次は普通に出来ることが分かり、次はとてつもなく簡単にできることが分かります。それが、過去の荒唐無稽の夢がたどった経過です。そして、現在の荒唐無稽の夢がたどるであろう道です。
■ [ゼミ]『学び合い』の定義
ゼミ生達が話しているのを、ソファーで半分寝ながら聞いていました。それによると、他研究室の人から『学び合い』の定義は何かを聞かれたそうです。黙っていました。しかし、この問題は重要なので考える視点を与えたいと思います。(みんな~、見ているよね~)
『学び合い』は生きています。毎年毎年、成長している概念です。5年前の我々も『学び合い』を研究し、実践していました。しかし、5年前の我々を、今の我々は笑うことが出来ます。なんて愚かだったんだろう~、と。いや、1年前の我々でさえも、その愚かしさを笑えます。そして、来年の我々は、今年の我々を笑うでしょう。我々は日々成長しているます。従って、外的な特徴によって定義しようとしても駄目ですよ。例えば、「教師の発言時間が授業時間の半数以下であり、最終的には数秒レベルになる」とうのはアウトです。そんなのは変わる可能性があります。
我々が最初に『学び合い』を取り組み始めた最初から、不動の考え方があります。我々はその考え方の意味の深みを発見する営みをしているのです。それは何か?皆さんで考えてください。おそらく、答えは簡単でしょうが、その考えの深みの凄さは、私も推し量ることは不可能です。
■ [大事なこと]何を褒め、何を止めるの?
munehiroさんより、ご指名の質問を受けました。とても大事な質問なので、可視化します。
munehiroさんの質問は『学び合い』の授業で机間巡視をしている際、どんなことを褒め、どんなことを叱り、逆に言えば、どんなことを褒めず、どんなことを叱らないか、の基準は何かを聞かれました。
「学び合いの仕組みと不思議」にも書きましたが、褒め、とぼけ、つぶやくは、有効です。それに関する質問です。
結論から言えば、ノウハウではなく、徹頭徹尾、考え方が大事です。つまり、「褒めるべきものとしては・・・・」という一覧表を作ろうと思えば、作れますが、あまり意味がありません。何故かと言えば、授業は生き物ですので、同じ事項であっても、ある時は褒める場合もあり、ある場合は叱る場合もあり、ある場合は言わない場合もあります。それ故、一覧表は無意味です。結局、ご当人が「良い」と感じたものを褒め、「駄目だ」と感じたものを叱ればいいのです。しかし、考え方に根ざす、いくつかの注意が必要です。
第一に、教師が何とかしようとするのはクラス集団であり、子どもではないということです。ある子どもが、駄目なことをした場合、その子を叱りがちです。しかし、それは無意味です。その子を変えることが出来るのは、教師ではなく、回りの子です。教師が叱って何とかしたとしても、それでは教師の目を盗んで叱るべきことをします。教師の目は盗むことは出来ます。しかし、同級生全ての目を盗むことは出来ません。そのためには、「その子」を叱るのではなく、「その子」のやったことが生じることを許したクラスを叱ります。その方が、「その子」にとってプレッシャーになります。そして、それ以上に、クラス全員に何が悪いかを伝えることが出来ます。
ある子が良いことをしたとします。教師は、その子を勇気づけようとして褒めようとします。それもあまり意味がありません。教師から褒められてやるような「その子」では持続力はありません。回りの子どもに褒められることの方が持続力がある。さらにもっと重要なのは、その子を褒めることより、そのようなことは大事なことだとクラス集団に伝えることが重要なんです。それ故、褒めるにせよ、叱るにせよ、クラス全体に対して伝えることが大事であることを忘れてはなりません。これが心に落ちているならば、どのような方向を向いて語るべきか、声の大きさ、口調、速度などのテクニックレベルのものは、巧まずとも自然に出来ます。
第二に、教師の仕事は目標の設定と評価であり、方法は子どもの考えるべきことです。従って、基本的に方法のレベルで褒めたり叱ったりすることは避けるべきです。教師から見て、駄目だな~、と思うような方法をやっていても、その方法を注意するのは避けるべきです。強いて行う場合は、目標は何かを再確認して、「みんなの考えた方法で、全員出来るのかな~」としらっとぼけて語ってください。また、良い方法を子どもが発見して、それを広げたいと思った場合、「すげ~な。教師生活長いけど、こんな凄いのは初めてだ~」と大げさに褒めて結構です。ただし、「この方法の良い点は・・」と解説しては駄目です。ごくごく一般的に褒めるべきです。教師が解説してしまうと、その方法の良さが矮小化されます。その方法の良さの詳細を語るのは教師ではなく、「その子」、「その班」です。
第三に、褒め、とぼけ、つぶやく、ことは有効です。しかし、それをずっとしなければならないとしたら、教師の負けと考えてください。けっきょく、テクニックにすぎません。そんなテクニックが教師の職能の分けはない。我々の目指すべきは、教師の目指すものが子どもの中に内在化することです。それが成立すれば、そんなものは必要ありません。それを求めている教師がいる、それだけで十分です。それが目指すべき姿であることを忘れてはいけません。
ただし、例外は二つあります。身体的事故に関わる事項、人権侵害員関わる場合は、直ちに、厳しく、かつ、詳細に、語るべきです。『学び合い』のトライアンドエラーが許されない事項ですので。