■ [大事なこと]『学び合い』の定義
私なりの『学び合い』の定義を書きたいと思います。
『学び合い』は生きています。どんどん成長しています。だから、それを定義することは難しいです。だって、今の時点の『学び合い』で定義すると、来年には違うものですから。でも、ずっと不動のものがあります。それをもとに定義すると以下の通りです。
『子ども達を有能と確信し、逆に言えば、教師の限界を自覚し、学校教育の目的である人格の完成を、全ての子ども、全ての時間で一貫して実現する教育』です。
いわゆるグループ学習との比較で言えば、教師の「出」が多いか少ないかで判別できます。それは、子ども達を有能と信じているか否か、逆に言えば、教師を万能と思うか限界があるかの違いです。
心だけ、学力だけ、体力だけの向上を目指すのは我々ではありません。人格は、知育、徳育、体育が三つそろっていなければなりません。一つだけを取り上げて伸ばすことは無理です。
特定の子どもだけをターゲットにしたものは我々ではありません。逆に、特定の子ども(例えば特別支援の子ども)を除外する教育も我々ではありません。
ある時間の10分間だけ、とか、国語だけ、というのも我々ではありません。それは、テクニックとしてのグループ学習にすぎません。我々は教育の考え方を大事にします。教育は何かが、教科によって、学年によって、単元によって、コロコロ変わるはずありません。もちろん、諸般の事情(例えば、管理職のご命令、また、自分自身が試行錯誤している等々)で限定的なものになるのは当然です。しかし、最終的に目指すものは上記の通りであると願うべきと思います。
上記によって、我々と他とがハッキリ分かります。
おそらく、我々が今後、どんなに進歩しても、上記を極めることになると思いますが、外れることはないはずです。
■ [大事なこと]校長
『学び合い』の同志である校長からメールが来ました。異動直後なので、どう動くか黙って待っていました。校長からのメールは、異動先の学校で『学び合い』の授業を試み始めたが、それについてのアドバイスを求めるものです。さっそく、サポートする旨の電話をしました。
その校長の指導のもと、中堅教師が実践したと判断し、サポートの相談を話しているうちに、そのメールの授業者は校長本人であることを知りビックリしました。
私は校長が『学び合い』の授業をすることを万人には勧めません。校長は校長の役割がありますから。でも、その校長の人となりを知っているので、さもありなんと思い、ニコニコしました。以前から、『学び合い』の授業をされて、それの自慢メールをいただいている教頭先生を知っています(O先生、あなたですよ)。
こんなことが起こるのは『学び合い』の素晴らしさです。『学び合い』を実践している先生方は本当に幸せです。ライブを参観した人だったら、自分もああなりたいと思うのが当然です。校長も、教頭も。だから、我慢できなくて機会を設け、『学び合い』をしたくなるのもしょうがない。だって、本当に幸せですから。そして、自慢したくなるのも、しょうがない。そして、その自慢で私は幸せになれます。そして、その学校で何が起こるかを想像すると、ワクワクします。
私の自慢です。世のあまたの教育の中で、その授業を見ているうちに、校長・教頭がやりたくなる、そして激務の管理職が出来るような教育が他にあるでしょうか!