■ [大事なこと]『学び合い』で学ぶもの
最近、ある方から『学び合い』を経験すると何が成長しますか?という質問を受けた。例えば、小学校4年生で『学び合い』を学んだ子どもは、それを経験していない子どもと比べて、小学校5年生、中学生、高校生、大人で違いが出るか?という質問です。
私は「ありません」と応えました。我々の『学び合い』は「歩く」とか「しゃべる」というレベルほど人間のDNAに深く根ざしたものだと考えています。それ故、何もしなくても基本は備わっていると考えています。だから、たかが1年間、『学び合い』を経験したからと言って、劇的に変化するわけではありません。そういうと、質問された方は、残念そうな顔になっていました。たしかに気持ちは分かります。そこで、続けて説明しました。しかし、そうだとしても『学び合い』を導入すれば、その子の一生の間に1年間、ホッと出来る時間を保証できます。これは凄いことです。また、『学び合い』は学習で成長できないほど人間の基本的能力だと考えると、逆に言えば、それまで、ずっと『学び合い』を許されていない学校教育を受けた子どもでも、教師がそれを許せば、直ぐに『学び合い』ます。従って、そういう意味では希望は持てます。
さて、上記の質問の方は、「説明の仕方・聞き方」の能力が向上するかというレベルの質問だったので、上記のように応えました。多くのグループ学習では、そのような能力は教えなければならないと考えています。その考えに染まった方だと、上記のような質問をされるのは当然です。それ故、私は「ありません」と応えました。しかし、本当はあります。
人とのコミュニケーション能力はDNAの中に組み込まれたものです。しかし、コミュニケーションの対象とするのは誰かということは、教育の賜です。動物で言えば、自分の群れの仲間は誰かという認識です。例えば、我々の多くは日本人がオリンピックで表彰台に登れば、嬉しくなります。これは日本人という認識があるからです。逆に、アジアの人が表彰台に登っても、特段の感慨はないのは、アジア人という認識がないからです。そして、幕藩体制の時代以前では、一般庶民が日本人という認識を持っていたか、はなはだ疑問です。日本人という認識は、教育の賜です。
クラスにおいて、クラスメートという意識がどれほどあるでしょうか?たしかに同じ部屋で勉強しています。しかし、勉強で班を構成させれば、特定の狭いグループが形成されていて、それは、休み時間のグループと同一です。そして、グループ間の交流は少ない(いや皆無)。そんなクラスが多いのではないでしょうか?『学び合い』は「クラス」という認識を持たせます。『「忙しい!」を誰も言わない学校』で紹介した異学年交流をすれば「学校」という認識が生まれます。「クラス」、「学校」という認識は、たかが運動会・遠足などのイベント的なもので育つわけではありません。日々の教科学習の中でこそ育ちます。
以上のことを、私は身をもって感じています。以前のメモの書いたように私は、小学校・中学校で友達はいませんでした。いじめられた記憶はありませんが、私はみんなになじまず、みんなも私になじみませんでした。学級委員には選ばれることはありますが、だからといって、遊びの輪の中に誘われることはありませんでした。高校で一人の友人を得ました。そして、大学で数人の友人を得ました。そんな私です。
学校において議論をすると、私をサポートする意見は出ません。他の子の場合は、誰かが「私もそう思う」という助け船を出してくれますが、私にはありません。それ故、私一人が議論を展開し続けることになります。おかげで、議論には強くなりした。が、議論において、他者は反対者と中立者であるという前提が刷り込まれています。学内政治において、私は性悪説の立場で出発します。これは、ボスのT先生や、同僚となったKさんと議論すると、嫌と言うほど感じます。お二人は、「そんなに心配しなくても、大丈夫、良い結果になるよ」と言います。ところが私は、「こういう攻撃もあり得る。こういうふうに決まったら・・」と主張します。話し合いながら、だんだん、自分が偏狭で腹黒い人間だと自己嫌悪します。残念ながら、学校教育の大多数で経験したものに根ざしているので、変えようがありません。もし、私が『学び合い』の教育に恵まれていたら、人付き合いに関して壊滅的に障害を持つ私でも、T先生やKさんのような前提で考えられたのだと思います。
多くの教師が考える面では、『学び合い』は、その人の本質を変えることは出来ません。しかし、多くの教師が軽く見ている面では、『学び合い』は、その人の本質を変えることが出来ます。