■ [大事なこと]志

昨日、ある先生からメールをいただきました。そのメールによると、今までの教師としての自分に自負と誇りと感じつつも、何か満たされなかったようです。それが何なのか、悩んでいたそうです。そこで、『「忙しい!」を誰も言わない学校』に出会い、その中で紹介した水落さんの言葉である「忙しさに押しつぶされて自分で自分にスポットライトを当てたくなることのないように過ごしていきたいものだと思いました。本当のプライドを手にするために。」という言葉に出会ったそうです。
その方は、『ちょっと警戒したくなるほどに美しい言葉ですが、いい言葉だなあ、と思わずぐっときました。目指すはこれだと。私はまだ水落さんのように思えるほどではありませんが、自分の中で何が問題なのかが分かったので、気分はだいぶ楽になりました。問題がわかれば、たぶん半分は解決したようなものです。』とありました。
その方へ以下のように返信しました。
『『学び合い』には教材の力も、話術も、指導法も全くいりません。まあ、あったら便利なこともたまにありますが、本当にいりません。そして、たいていの先生が悩んでいるレベルのこと、それは「クラスの平均点を10点ぐらい上げる」、「気になる子を少なくする」レベルのことは、本当に簡単に解決できます。
でも、それは『学び合い』の入門レベルでしかありません。そっから先に進むには、その人の「志」が一番大事なんです。多くの教師にとっては、大学の教職科目で学んだ教育観・授業観・学習者観はお題目で役に立たないものと思っています。たしかに、そうです。しかし、『学び合い』はテクニックではなく、教育観・授業観・学習者観が大事なんです。それがわかるためには、「志」なんです。』
私が理学部に入学したとき、科学者を目指しました。そして、理科の教師は、科学者より一段も、二段も低い職業に感じていました。まあ、科学者になれない人がなる職業だと思っていました。なぜなら、科学者には知の創造があります。しかし、教師は科学者の創造した知の中で、程度の低い知識を子どもに伝達するだけのことだと思っていました。遺伝はDNAに二重らせん構造によって伝わっていると「発見する」ことと、遺伝はDNAに二重らせん構造によって伝わっていると「伝達する」ことのどちらが普遍的な価値を持つかは一目瞭然です。しかし、今はそうは思いません。教師は「遺伝はDNAに二重らせん構造によって伝わっていると「発見する」科学者を生み出す職業だと思います。さらに、そのような発見を出来る社会を形成する大人を生み出せる職業です。いかなる発見も人がなすものです。その人を、社会を生み出せる職業だとしたら、最高、究極の職業です。
しかし、多くの教師が日々の実践で悩んでいること、それは「二桁の足し算の繰り上がりのわからない子がいる、どうしよう」とか、「武家社会の基礎はご恩と奉公が基礎になっている」とか、「ごん狐の兵十の気持ちが端的に表れる表現はどこだかわからない子どもがいる」とかです。どう考えても、数学者、歴史学者、国文学者の研究者のテーマに比べれば一段も二段も低いテーマです。なぜなら、いずれも数学者、歴史学者、国文学者の研究者のテーマと同じ土俵にたっている教材のレベルで悩んでいる。教師独自の専門性を高めようとする人は、指導法、話術を高めようとします。しかし、結局は心理学者や落語家と同じテーマであり、そして、心理学者や落語家より一段も二段も低いテーマです。
教師の、教師だからこそのテーマとは、「大人を育てる」ということです。そこにこそ、たった一度の人生の中で選択した教師という職を、最高の選択だと確信し得る道だと思います。多くの教師が「大人を育てる」という志を持ち、教師の職業を選択したはずです。「二桁の足し算の繰り上がりのわからない子がいる、どうしよう」とか、「武家社会の基礎はご恩と奉公が基礎になっている」とか、「ごん狐の兵十の気持ちが端的に表れる表現はどこだかわからない子どもがいる」とかに問題意識を持ち、教師を選択した人は殆どいないでしょう。しかし、日常の「二桁の足し算の繰り上がりのわからない子がいる、どうしよう」とか、「武家社会の基礎はご恩と奉公が基礎になっている」とか、「ごん狐の兵十の気持ちが端的に表れる表現はどこだかわからない子どもがいる」という問題の中に埋没し、教材や指導法や話術に誇りを見いだそうとしています。または、授業外のクラブ指導、また、授業外の生徒指導の中で誇りを見いだそうとします。何故なら、日常の授業と「大人を育てる」こととをつなぐ道を見いだせなかったからです。しかし、『学び合い』は日常の授業の中で「大人を育てる」ことが出来ます。そして、本当のプライドを得ることが出来ます。
だから、「そう出来る、そうしたい」という志が大事なんです。
■ [う~ん]気づかない

30人の子どもがいたら、30種類のわかり方があります。一人一人が個性的な疑問を持ちます。教師が一人一人の疑問に答えようとするなら、一人あたり1分少々(1校時÷30人)です。さらに、一人一人が複数の疑問を持つことを考慮するならば、数十秒ぐらいになります。仮に同じような疑問を持っても、それを疑問と感じる「時」は多種多様です。そして、それを疑問と感じる「時」にならない限り、それをいくら説明しても耳に入りません。例えば、実験の最初に実験の手順をすべて説明しようとすると、たいていの子は途中から耳が日曜日になります。だって、その手順を理解するには、実験の最初から最後までイメージする必要がありますが、それが出来るのは教師と成績のよい子ぐらいですから。という小学生でもわかる理屈から、一斉学習は馬鹿馬鹿しいと我々は考えています。
しかし、何故、多くの教師はそれに気づかないのか不思議に思っていました。が、ふとわかりました。理由としては・・・
第一に、教師という特定の少数集団が「いい・悪い」を判断しています。例えば、古伊万里の皿の価値を決めているのは世界で何人ぐらいの人なのでしょうか?一般ユーザーがその判断に従っているならば、価値を決める人が何とでも出来ます。教師は日本全国に数百万人おり、もっとも就業人数の多い職業です。しかし、それでも日本人口のコンマ数パーセントに過ぎません。そして、それらの人は、現在の学校教育のシステムにフィットした人です。それ故に大学まで進学し、教職免許状をとり、教員採用試験に合格しました。その人たちが集まって、教材や指導法を評価しているのですから、善し悪しがわかるわけありません。私はかなり前から、高校物理の指導要領の作成に、物理で苦しめられた人を委員として半数は含めるべきだと思っています。そうじゃないと、物理教育の問題点がわかるわけ無いから。しかし、物理の指導要領も、そして、その他の指導要領も、それが大好きで、それがメチャメチャよくわかる人が集まって決めています。
第二に、第一が成り立っているのは、市場原理がなりたっていないからです。映画評論家がどう書こうが、見れば、良いか悪いかが判断できます。ラーメン雑誌にどう書かれていても、嫌いな人は嫌いです。そして、それらが市場に残るか否かは、専門家から見れば愚かに思える、ユーザーの判断の集積です。だって、そのユーザーのための商品なんですから。そして、それが成り立っているのは、教師も子どもも親も、現状で満足しているからです。
イギリスは食事がまずいことで有名です。留学した人にそれが本当かを聞きましたが、本当だそうです。彼によれば、イギリス人は決して味音痴ではなく、おいしいものを食べれば、おいしいとわかるそうです。じゃあ、おいしい食事をつくればいいと思うのですが、イギリス人は「今のままでもいい」と思っているそうです。おそらく、右を向いても左を向いてもまずい食事ばかりだからでしょうね。振り返って日本の教育もそんな感じのように思えます。例えば、小学校の業者テストのクラス平均値が、期待得点の八十点ぐらいをクリアーすれば、まあ、よしと思います。その中に、30点の子どもがいても、「そんな子どももいるよな~」と気にしません。数年に一人ぐらい、クラスに不登校の子がいたとしても「そんな子もいるよな~」と気にしません。クラスに2、3人の要特別支援の子がいたとしても、「そんな子もいるよな~」と気にしません。
「不登校を絶無に出来る」、「業者テストにおいて、クラスのほぼ全員が期待得点を上回り、7、8割は期待得点に10点加算した点数をとれる」、「要特別支援の子が気にならなくなる。さらに言えば、実は障害がない子だったことがわかる」が出来るということを伝えねば。