■ [嬉しい]広がる、広がる

本日、以下のメールをいただきました。(いつもながら、個人特定ができないように加工はしています)
『こんにちは。初めてメールをさせて頂きます、○と申します。子供の通う小学校で「学び合い」を実践していて、担任の先生より西川先生の著書をお借りして読んだり、HPを拝見したりして「学び合い」を知りました。一年生の息子の授業を参観して、低学年の子供達が「学びあっている」姿を見て、わずか6,7歳の子供達が、わずか入学数ヶ月で、友達の机の間を先生のような呈で歩きまっわっている姿に驚きました。(息子は「誰か来て・・」という顔で座っていましたが!)
一年生で出来るのならば、保育園児でも?と思いながら先生の著書を読み進めていくと「少なくとも幼稚園では可能」とのこと。実は私は保育園に勤める保育士です。担当クラスのA君は、自閉症の○歳の男児です。クラスは異年齢で、担任と私の2人で持っていています。
A君はとてもお喋りな明るい性格で、知的遅れも今のところ同年齢の子と変わらないと診断されています。ただ、自閉症という性質が故、行動の見通しが悪くなったり、欲求が通らなかったり遮られたりすると、パニックを起こすのです。泣き喚き、耳ふさぎ、全否定などです。そうなると、平常に戻るまでに別室でクールダウンをしなくてはならないのですが、10分~ときには30分かかるときもあるんです。でも、いったん平常に戻ると何事もなかったかのように機嫌よくクラスに戻れるのです。そこに彼の障害ゆえの生きづらさを感じます。パニックを起こすか否かは、その時の私達の係わり方にもよるので、難しいと感じながらもA君にとってどんな係わり方が良いのだろうと日々考えていました。
そんなとき西川先生の学び合いを知り、HPで「子供を救えるのは子供しかいない」「あなたが育てたいのはいつまでも教師の助力を必要としている子か、友達の協力を上手く借りて生きる力をつける子か」との文章を見つけ、目の前が開けるような気持ちになりました。
・・・クラスにあなたより上手く係われる子がいるはず・・・いるいる!A君の大好きなBちゃん!頬擦りするくらい大好き!
・・・あなたがべったりだとクラクの子がその子に係わろうとしない・・・確かに。A君がなにかするたび「せんせ~!」と呼びにくるし。
自分達の支援が間違っていたとは思いませんが、少し軌道修正してもいいんじゃないか、と思ったのです。もともと、子供同士の育ち合いを求めた異年齢保育。私はA君ではなく、クラス全体に対して働きかけをすべきでした。そう思ったら、次にクラスのみんなに会うのが楽しみになっていました。そして、思わず先生にメールを打っている・・・と言うことなのです!
学校の先生から次回は国語の授業に関しての本が出版されると伺いました。更にその後、発達障害児に関しての本も出版予定とか・・・。まだまだ知ったばかりの「学び合い」ですが、これからも注目して行きたいです。そして、また、私とA君と組のその後をメールできたらいいなと思います。』
以上のようなメールをいただきました。嬉しくて、嬉しくてしょうがありません。日本のどこかで『学び合い』を実践してくれる人がいる。そのクラスの保護者が教師で、我が子の姿・我が子のクラスの姿を通して『学び合い』の良さを感じ、そして、自らのクラスで実践しようとしている。「正のフィードバック」です。これが進めば、その保護者の方が自らの実践経験を、お子さんの担任の方に伝えてくれる。こんなことが起こり始めています。本日は、本当に幸せな気分で眠れます。
■ [大事なこと]なぜ少人数指導

ある若い同志が、教師が少人数を議論している満座で「少人数が有効なら、小規模校の学力ほど高くなるということですが、そのようなデータがあるのでしょうか?勉強不足なので教えてください。」と質問したら、一同がし~んとなったそうです。そのメールを読んで笑い出しました。若いから、みんなが言わないようにしている一言を、聞けるのだと思います。
実は、多くの教師は、そのことが分かっているのに、それでも「少人数がいいのでは・・」と思っています。実は、父母も「少人数がいいのでは・・」と思っているので、行政もそのように対応しているのです。そして、父母がそおもっている理由と、教師がそう思っている理由と同じなんです。なんだと思います?
それは、教師が学校に求めている最大のものは、保育園です。つまり、自分の代わりに我が子をお世話してほしいのです。それ故、親は教師に我が子の「親」を求めています。また、教師は「そんなこと無理」とは知っているのですが、「そうしなければならないよな~」という後ろめたさを感じています。思い出してください。世にある、教師ドラマ、映画の殆どすべては、ある子をどこまでも親身になっている教師の姿を描いています。また、勤務時間外も子どものためにすべてを捧げている教師の本が、売れています。私には驚くべきことだと思うのですが、教師すら、そのような本を読み、そうあるべきだと感じている人がいます。
このブログをお読みの方なら、その馬鹿馬鹿しさを分かっていると思いますが、あえて書きます。
ほ乳類の中で、同時に十個体以上の子どもを育てる生物は存在しておりません。一回の出産で多くの子どもを産み、かつ、生存率の高い生物の多くは、養育期間は短いものです。人間の養育期間は長いですが、一回の出産人数は平常は一人です。大家族が多かった戦前であっても、5人以上の子供を持つ家庭は少なかったはずです。さらに言えば、中世以前では子どもの生存率が非常に低かった。つまり、人間は十人以上の子どもの親になることを、DNAに組み込まれていません。子のない人が、数人の子どもを引き取って「親」になることは出来るでしょう。なぜなら、そのような能力はDNAの中にありますから。しかし、人間が十人以上の子どもの親になることは、まず不可能です(皆無とは言いませんが、日本中に数百万人の教師が出来るわけない)。従って、四十人クラスを三十人、そして二十人ぐらいにしても、不可能は不可能です。もし二、三人レベルの少人数が実現できるならば、親代わりにはなれるかもしれません。しかし、それによって出来るのは「親代わり」であって、学力面から言えば、親の家庭学習以上の効果は期待できません。
ところが、多くのドラマ、映画、本は、この真実を伝えようとはしません。ドラマ、映画では一話完結で「ある子」の問題は解決します。ところが現実の子どもの問題は「ず~っと」続きます。たとえば、家庭に問題のある子の問題は、教師には解決できません。そうなると、その子に「ず~っと」親身になり続けなければなりません。そうなると、「その子」以外をほっぽります。しかし、画面の後ろの背景に紛れている子どもにも悩みはあるんです。
プライベートをすべてを捧げ、一人でも多くの子どもを救う教師は一つの理想です。でも、圧倒的多数の教師には家庭があり、子どもがいます。その子どもにも「親」が必要なんです。不良の生徒を救っている教師の家庭で、その教師の子どもが不良になっていたとしたら、それは笑えぬ笑い話です。
もし、すべての子どもを救おうとしたら、教師はよき親ではなく、よき上司になるべきなのです。そして、学校は保育園ではなく、自己実現できる職場になるべきです。しかし、学校を保育園になることを願い、教師に親になることを願う保護者そして教師の業は深いと思います。