■ [大事なこと]オッカムの剃刀
昨日のメモのDNAの原則から、私は、それが正しいか否かを判断するとき、「他の生き物に置き換えても正しいか?」、「今の自分に置き換えても正しいか?」と考えます。
人の生き方の本質的な部分は、大人であろうと、子どもであろうと正しいはずです。少なくとも、大人の時期にのみ正しい、逆に、子どもの時期にのみ正しい、よりは本質的だと思います。さらに、もっと普遍的であるならば、人間のみならず他の生物に置き換えても正しいはずです。私の場合は、多くはホモサピエンスに近縁なサルに置き換えます。しかし、「群れ」という色彩が強ければ、オオカミに置き換えたり、アリに置き換えます。
ゼミ生から研究報告を受けると、私はその結果の「教師」を「学長」に置き換え、「子ども」を「私」に置き換えます。そう置き換えたとき、自分の行動と子どもの行動が一致しない場合、それは、ゼミ生の報告は「誤っている」か「どうでもいいこと」であることを意味します。
この思考方法は非常に有効です。しかし、この思考方法は『学び合い』の基礎である、子どもは教師と同じだけ有能であり、愚かである、ことを理解していないと出来ないことです。