■ [大事なこと]国語
小学校の花の観察といえばアブラナです。でも、何でアブラナを観察するかご存じでしょうか?
典型的な花を思い浮かべてください。花びらがあり、萼(がく)があり、おしべ、めしべがあると思います。花の観察を通して、そのような基本的な構造を学びます。そして、花びらの数、おしべ、めしべの数には一定の法則があることを学びます。この至極簡単なことを学べる花は、実は数少ないのです。例えば、市街地で一番目につく花は、イネ科植物です。ところが、生物を学ばない人には花に見えません。だって、花は色鮮やかと言うイメージがあります。小学生に、これが花だ、と言っても納得しないでしょう。市街地で次に多い花はキく科植物です。タンポポが代表的ですね。でも、この花は集合花です。つまり、普通の人が花びらの一つと思いこんでいるのが、実は花一つなんです。さらに特殊化が進んだコスモスやヒマワリなどは、花びらにも見えません。コスモス、ヒマワリの花の中心のテンテンは一つ一つが花なんです。チューリップ、ユリはごく普通の花に見えますね。でも、よく見てください。それらには萼(がく)がありません。実は、外側の三枚が萼で、内側の3枚が花びらです。萼があまりにも美しいので、萼に見えません。春の花として代表的なサクラは観察に適切のようです。しかし、サクラなどのバラ科植物はおしべの数が多すぎて、数えきれるものではありません。以上のようなことから考えると、アブラナ以外は観察に使えないのです(例外はカタバミがありますが、花が小さすぎる)。認知心理学では族類似という概念があります。我々が持っている自然カテゴリーの多くは、そのカテゴリーのものが持つ特徴を多く持っていますが、その全てを持つものはほとんど無いのです。
「手引き書」に書きましたが、身分制度が崩壊することによって、教育は一つ一つの職場の教育から離れていきました。そして、それら全ての職業の基礎となる知識・技能を学ぶ場として学校が生まれました。共通項を見いだしていくと、結局、どの職業とも関係ないものが生まれます。昔から、読・書・算は、どの職業にも関係する基礎的なものです。それ故に、非常に広い範囲の共通項であることを国語は求められます。それ故に、ある意味で現実から離れてしまい、ある意味で最も醜悪なものとなっているように思います。
例えば、作文です。我々は小中高と数多くの作文を書きました。思い出してください。その作文は誰に向けた作文なのでしょうか?考えてみれば、それが曖昧であることに気づくと思います。「自分ですか?」でも違いますよね。現実問題としては、「先生」が見ることを予想しています。しかし、「先生」へ書いたとも言えそうもないですよね。変なことだと思いません?学校を卒業してから、一度でも「誰に」を意識しない文章を書いたことがあるでしょうか?ましてや、日本語は「敬語」が特に発達してるという特徴を持つ言語です。それなのに国語で、この異常な作文が不思議に思われないということが、私にとっては不思議でしょうがありません。逆に言えば、国語は『学び合い』に関して大鉱脈だらけと言えます。そのごくごく手始めを「学び合う国語」(東洋館出版社)に示しました。その本の副題である「国語をコミュニケーションの教科にするために」は、我々の本当の願いです。
追伸 このメモの前置きは長すぎですね。ごめんなさい。私は元々は理科教育学出身で、理科教育学で学位をいただき、現在、日本理科教育学会の学会誌の編集委員長を務めています。が、大学の都合により、理科教育の授業を出来ない状態におります。そのため、たまに、長々と理科のことを書きたくなります。
追伸2 ということで国語は面白いと思っているのですが、同志Kさん以降、国語をやりたいという人は私の研究室に来ない。残念だな~。国語を国語の立場でやることの意味を否定しませんが、一歩離れた立場から見るほうが斬新な発展が出来るのに・・