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2008-05-14

[]人数の多さ 01:05 人数の多さ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 人数の多さ - 西川純のメモ 人数の多さ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 「人数が多いほど生徒指導・教科指導は簡単」と書いたとたんに「歌さん」から「?」が出ました。当然の反応だと思います。大事なことですので、メモりたいと思います。

 数学の『学び合い』を見ていると、実は殆どの時間は一人の時間なんです。そして、分からないときに2人が関わるのが基本です。困難な課題のときに4人、5人、それ以上の集団ができあがりますが、基本は一人、二人が基本です。それが実験の場面だと4、5人が基本です。ところが集団の目標の確認となると数十人の話し合いをし始めます。そのデータと理由に関しては初期の研究で明らかにしていますし、本でも紹介している通りです。つまり、子どもは課題によって集団の人数を変えています。これは集団が20人であっても100人であっても、さらに1000人であっても同じです。従って、このレベルのことでしたら、『学び合い』の集団の人数は本質的ではありません。いくら人数が増えても、変わらないのです。

 ところが人数が多いことによって様々なメリットが生じます。第一に、その集団の中に教師が求めていることを理解する(既に知っている)子どもがいる可能性が高まります。集団の人数が小さいと、その集団の中にそのような子どもが「たまたま」いない可能性が高まります。班内では関わっているが、班同士の関わりが弱いとき、最後まで間違った応えを修正しない班が生じますよね。あれです。集団の中には一定数の分かった子がいます。統計学の大数の原理によって、集団が大きければ、そのような子どもの存在が安定します。一定数いれば、あとは広げるだけのことです。

 第二に、相性の問題があります。人の相性は不思議なものです。他人様、いや、本人ですら相性が良いか悪いかは予見できるわけではありません。さらに言えば、その日、その課題によって相性が変わります。トライアンドエラーの中で最適な人と出会えるとしたら、小さな集団より大きな集団の方が良いのは当然ですよね。さらに言えば、異学年とも関わりますが、異質なメンバーが集団を構成するとき集団は安定します。そのような異質なメンバーと出会える可能性も集団が大きいほど望ましいです。

 ということで、私にとっては人数が多いほど楽である問いのは、当たり前すぎるほど、当たり前です。

 が、上記は個人が個人と出会うレベルの話です。「みんな」を達成するためには、メンバー同士が互いの状況を把握する必要があります。また、協同して何かを作り上げる課題の場合は、個人同士、また、集団同士が互いに調整する必要があります。それを実現するために我々は組織を作ります。GMやトヨタは数十万人の人間を組織し、一国に比すべき総生産を生み出しています。いや、国自体が組織です。ですので、理論上は数十万人でも数億でも『学び合い』の集団は出来ます(あくまでも理論上です)。

 まあ、そこまでいくとリアリティがなくなるので、社員数百人の会社を考えてみましょう。それぐらいの規模だったら日本には吐いて捨てるほどあります。いや、それ以上の数千レベルだって山ほどあります。従って、平均的な学校丸ごとの人数を組織することは可能なはずです。

ここで大人と子どもは違うと言い始めたとしたら、それは『学び合い』の考え方と外れていますので、議論は平行線でしょうね。数百の組織を維持することは大人であっても実は簡単ではありません。出来る人もいれば、出来ない人もいます。「勉強しなさい・・・」で紹介した経営学者のリッカートの研究にも紹介されています。

 会社には係があり、課があり、部があります。そして、それぞれに係長があり、課長があり、部長があります。そして、その上には常務がいて、専務がいて、社長がいます。それぞれの役職に求められる管理能力には違いがあります。係長は管下の部下と同じような仕事をしつつ管理をしています。まあ、管理職というより先輩レベルです。この場合は、問題が起こったら、自らが手を取って解決してあげることもあります。しかし、社長の場合は、そんなことは職能ではありません。明確な目標を与え、その社会的意味を語ることが第一の仕事です。そして、厳しく評価するのが仕事です。そして、やる気になった職員がやりやすいような人・物・金を確保すること、つまり環境の整備が仕事なんです。社長と係長の間の管理職は、その中間となります。

 もし、教師が社長となるならば、子どもたちの中に専務、常務、部長、課長、係長が生じ、それによって情報の共有と調整が成されます。となれば数百人の『学び合い』は可能です。しかし、そのためには子どもたちの中に専務、常務、部長、課長、係長が生じると信じなければなりません。それが『学び合い』の子ども観が関係します。子ども「たち」は大人と同じだけ有能であり、限界があることを信じられるか否かです。それが信じられなくなると、先読みして解決先を用意するということをします。その度合いによって、掌握できる人数の上限が定まります。

 と、偉そうなことを長々書いていますが、「じゃあ、おまえ出来るのか?」と言われれば、「すみませ~ん」と直ぐに白旗を上げます。しかし、失敗したときでも、本来は出来るはずだと信じています。そして、『学び合い』の基本に戻って、課題設定を考え直し、もう一度語ることを大事にします。そして、やる気になったメンバーがやりやすいように人・物・金を確保することにエネルギーを費やします。そして、「こうしたらいいのに~」と思ったとしてもぐっと我慢します。我慢しきれずに、言っちゃうことがあることを、告白します。従って、我慢するように努力するというのが本当ですが。

 いずれにせよ、苦い失敗を何度も経験しているのにも関わらず、私にとっては「人数が多いほど生徒指導・教科指導は簡単」は疑いがたい真実なのです。本気で信じています。そして、失敗もありますが、それが本当に正しいと確信する経験の積み上げも多いのです。そのような経験があるのは、「人数が多いほど生徒指導・教科指導は簡単」を信じ切っているからです。

[]守破離 13:16 守破離 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 守破離 - 西川純のメモ 守破離 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 昨日、ブログのコメント欄を通じて、やりとりをしました。グーグルではブログを使ってメールのやりとりをしているそうです。情報は公開することは良いことだと思います。

 さて、それに関連して、『学び合い』の守破離を書きたいと思います。

 最初の段階の型に従った段階とは、「『学び合い』の手引き書」に書かれているようなことを忠実に行う段階です。

 次の段階は、そこに書かれていることの言葉の意味を理解する段階です。例えば「みんな」と手引き書に書いていても、ごく普通の先生は、ごく普通のこどもみんなと考え、手のかかる子や特別支援の子を無意識に除外します。それはしょうがないでしょう。だって、今までの教育では、除外して考えるしか術がないのですから。しかし、『学び合い』での「みんな」とは本当に「みんな」なんです。これは、トライアンドエラーの中で学ぶこととなります。その他、手引き書の中には、普通の先生が誤読する部分がいっぱいあります。しかし、それを「そうではない」と説明書きを加筆し続けたら、どうしようもない厚さになってしまいます。結局、ぶつかってみたとき、それが気づくのです。

 次の段階は、『学び合い』の考え方が染みついて、それを意識することなく当然のように考えるようになります。例えば「学力と人間関係作りが共に向上できる」、「異学年学習は同学年学習より簡単」、「人数が多いほど生徒指導・教科指導は簡単」等のように、普通の先生にはとても信じられないことを信じ、逆に、そう思えないのが不思議と感じられるようになる段階です。この段階になると、一見、手引き書と反するようなことをしても、子どもがちゃんと学び合います。何故なら、その人の全ての行動が、『学び合い』の考えに基づくものですから。

 ただし、最後の段階に至っても、自分の問題が起こると、混乱して『学び合い』の考え方と反するようなことをします。私も。でも、しょうがありません。人なのですから。しかし、もがいてもがいて、最後に至のは、結局、基本に立ち戻るしかない、ということを気づけるのもこの段階です。