■ [大事なこと]宗教
ネットサーフィンをしていたら、面白い記事に出会いました。内容は、『学び合い』は宗教であり、宗教は善意で出発するが、恐ろしい結果を生み出すこともある、だから布教することにはとまどいがある、というものです。非常に大事なことですので、コメントします。
まず、『学び合い』といのは広い意味で宗教だと思います。宗教とは自己矛盾を起こさないようにしている知識の体系だと私は思っています。そして、その代表格は他ならない自然科学だと思っています。あるものが宗教か否かを判別するもっとも簡単な方法は、他の宗教に反発するか否かだと思います。天地創造説で進化論とキリスト教は反発し合っています。宗教はアヘンだと言った共産主義も一つの宗教です。
しかし、科学は他の宗教とは違う点があります。第一は、検証可能なものを基礎としています。多くの宗教は「来世の幸福」という検証不可能なものをもとに現在の行動を合理化します。これが宗教戦争などの不幸を生み出すものだと思います。もう一つは、オッカムの原理、つまりシンプルさを大事にしている点です。天動説、フロギストンの盛衰史を学ぶと、そう思います。無茶な仮説であっても、例外条項を積み上げていけば、矛盾のない体系を作り上げることが出来ます。キリスト教においては、アダムとイブが人類全体の祖先であるとされています。ところがアダムとイブの子どもであるカインは結婚します。しかし、結婚相手は誰から生まれたのかに関して聖書は何も書いていません。すくなくとも神が別の人類を生み出した記述は聖書にありません。おそらく神学者は何かの説明を加えるだろうとは思いますが、全体の体系は複雑になってしまいます。
もし、『学び合い』が「読みの深さ」とか「科学的概念の形成」などの検証不可能なものを持ち出してきたら、そりゃ科学とは違う宗教に進んでいる証拠です。また、現状の『学び合い』はシンプルな学校観・子ども観に矛盾無く、それを基礎として語ることが出来ます。しかし、もし、例外条項を積み上げていくようになったら、そりゃ科学とは違う宗教に進んでいる証拠です。
科学は成長する宗教です。そして、少数の個人の判断でどうとでもならない宗教です。それはとても大事なことだと思っています。
追伸 現在多くの教師が普通と思っている、一斉指導、少人数指導、習熟別指導・・・、それらの有効性を実践の場で検証したデータはない、と教育調査の専門家の端くれとして断言できます。それらは、統計上の操作でなんとでもなるレベル、ピグマリオン効果・ハロー効果でも出るレベルです。いや、検証の必要もないと思いこんでいる節があります。私には科学ではない宗教のように見えます。
■ [大事なこと]寛容
宗教と宗教が出会うとき、壮絶な戦いが起こります。利害の戦いの場合は、折り合いをつけることは可能ですが、宗教での戦いはそれが出来ませんので、利害の戦いでは考えられるのほどの残忍な戦いになります。
が、いつでもというわけではありません。例えば、もともとのイスラム教は非常に寛容な宗教だと思います。征服地であっても、納税をして、あからさまな反イスラム教の行動を公共な場で行わない限りは、宗教の自由を保障していました。東大寺は華厳宗の総本山ですが、ありとあらゆる宗派の始祖が学んだ寺でもあります。最澄は空海に密教を教えを請いました。仏教の天部の神々は、伝搬地の土着の神々です。
私は、寛容は大事なことだと思います。私の職場の同僚の圧倒的大多数は、『学び合い』ではありません。その多くは、私がかってのめり込み、そして捨てた(と私が勝手に思いこんでいる)ものを大事にしています。しかし、その方々は子どもを大事にしている、素晴らしい教師です。教条的ではなく、柔軟です。検証可能な事実と、シンプルな体系、この二つを積み上げていけば交わることは多いと思っています。そして、それこそが『学び合い』で大事にしている、他者と折り合いをつけて課題を達成するという、人格の完成に他ならないと思っています。