■ [大事なこと]次のステップ
ある同志から『まずは、結果が表れやすいところからと思い今年度は、算数・漢字で学び合いをしています。結果は楽勝です。次の段階として、思考が見えるもの(収束的思考ではなく、拡散的思考のもの)を課題にしたいのです。』とメールがありました。その同志からは、そのような課題に関してどのような注意が必要かの質問でした。
その同志のメールを読んでいると、その教科に合わせた手だてを考えているようでした。しかし、私の応えは「算数・漢字の学習と、全く同じです。いや、同じにしなければならない!」です。
算数・数学の答えは一つのようです。ところが、その答えの導き方は実に多様です。だって、「どうやって解いたの?」と聞けば、子どもは実に多様に説明します。では、どこまでも多様性は許されるかというと、そうではありません。結果として、それは正答を導ける方法であらねばなりません。
社会だって、国語だって同じです。年号や漢字のように、正誤がはっきりしやすいものがあります。また、「民主主義の特徴とは何か?」や、「ごんの気持ちが最も表れるのはどこか?」だって、正答になれるには一定の幅があり、どこまでも自由に考えて良いわけではありません。ちなみに、どこまでも自由に考えて良いものは学校教育ではなく、遊びです。
私はこの手の質問を受けたとき、毎度、毎度、質問者に同じ質問をします。その質問は「その課題は何を達成したいの?」です。
もし、「子どもの自由な発想でいい」とその人が応えれば、私は極端に変な事例を挙げて「それでもOK?」と聞くと、大抵はNOです。そこで、じゃあ「どこが駄目なの?」と聞きます。この繰り返しで、その人が達成したいと思っていることを聞き出します。
もし、「読みを深める」のような訳の分かったようで、訳の分からん曖昧なものを持ち出したら、「読みって何?」とたたみ込みます。そうすると、さらに複雑なことを言い出します。そうしたら「私は大学教育を受けたけど、失礼ながら、あなたの言っていることはちんぷんかんぷんです。そんなこと子どもが分かると思う?達成すべきものが分からなくて、どうして子どもが達成できるの?」と言います。中には、「いや、読むの深さがある!」と言い張る人がいたら、私が元理科人でしたので「科学的概念の形成」という理科人は分かると思いこんでいる例を挙げて説明し、「読みの深さ」も五十歩百歩であることを説明します。
次に、ある程度、達成するべきことを具体的に言えるようになったら、「それが達成したか、しないか、何で判断するの?」と聞きます。大抵の教師は、そのことをあまり考えていません。中には「分かる人には、分かる」というような禅問答のようなことをおっしゃる。そのような場合は、先と同様に「私は大学教育を受けたけど、失礼ながら、あなたの言っていることはちんぷんかんぷんです。そんなこと子どもが分かると思う?達成すべきものが分からなくて、どうして子どもが達成できるの?」と言います。
どんな教科でも、達成できたか出来なかったかの判断基準によって達成すべき課題を明確にする(これを操作的定義と言います)ことが出来たならば、やるべきことは算数・数学、また、体育と同じです。「クラス全員が○○できるようになること。はいどうぞ」です。
ちなみに図工、美術の課題のようにオリジナリティを求める場合は、「人とは違うところが一つ以上含み、それはどこで、どういう意味があるかを説明できる」とすればいいんです。
ということで、私にとって教科の差などは、ちんけな差のように見えてしょうがありません。あははははは