■ [Q&A]質問に応えて
フォーラムではいつのまにか質問コーナーが設けられました。司会の人からは、「我々が応えられない部分は先生が応えてください」との求めがありました。そのころは黒板に書かれた質問は5こぐらいでしたが、あれよあれよというまに二十弱になってしまいました。私は、「で、何分間与えてくれるの?」と聞いたところ、「20分で」とのお求め。かなり高度な二十弱の質問に20分で応えよとは、無茶なお求めです。しかし、教師の端くれですので、求められた時間に話をまとめるのは芸のうちです。早口でまくしたて、19分20秒で応えました。(エッヘン!)基本的には、HP(http://www.iamjun.com/)に公開している「手引き書」に書いてあることです。しかし、多くの人が疑問に持つ内容を含んでいます。そこで、何回かに分けて再録したいと思います。
さて、我々の授業では、一校時あたりの教師の発言時間は多くても5分間、まあ、最終的には数秒にまで短縮できます。それにも関わらず(本当はそうだからこそ)、成績が驚異的に上昇し、人間関係が向上し、特別支援や不登校が解決できると豪語します。しかし、多くの先生方には信じられないでしょうね。だから、「そんなこと出来るの?」という質問が多いです。しかし、そのような質問に対しての私の返答は、「じゃあ、あなたや出来ているの?」です。私は『学び合い』の凄さ以上に、一斉指導の馬鹿馬鹿しさをよく知っています。一人の教師が数十人の子どものことを背負うなんて無理な話です。少なくとも、『学び合い』を直ぐに分かってくれる子どもたち(まあ、4~十数人)と一緒に背負う方が効果が高いのは当たり前です。そして、その子たちと一緒にクラス作りをすることによって、ものすごいことが出来ると考えるのが『学び合い』です。
まず、そのあたりの質問をピックアップして、その返答を載せたいと思います。
Q:時間がかかる子に子どもが教えることが出来るのか?
A:では、一人の教師が時間がかかる子を教えてられますか?一斉指導の中で個別対応できる時間は1校時の中で何分ぐらいですか?クラスの中には、かかる時間の長短はあっても、教師の支援を必要な子どもがいるのではないでしょうか?実は、勉強の出来る子にとっては、もう分かっていることを延々と聞かされていてイライラしているのです。その子に対しても支援は必要です。つまり、クラス全員が支援を必要としています。であれば、個別対応出来る時間をクラスの人数で割ってください。せいぜい数十秒でしょうね。それで出来ますか?根本的な解決策は、クラス全員がクラス全員を支援しなければならないのです。
Q:先生が「教えない」ということに納得がいかない。教えずに生徒だけでは理解できない内容もある(学年が上がればなおさら)。
A:教室で教師が教えずに「自分」だけでは理解できない子どもがいることは当然です。しかし、塾・予備校・通信教材等で既に理解している子どもは4、5人(都市部では7、8人)はいるはずです。さらに、教師が教えなくても教科書を読めば「自分」だけで理解できる子どもがいるはずです。教師一人が「一通り」の説明を演説したり、板書する方が、そのような十人以上の子どもが周りの子どもに教えるより有効ですか?
Q:ペーパーテストでは計れない部分については(説明する力、ノートの書き方、言語力)。
A:では、それを現状の一斉指導で評価していますか?おそらく、殆ど評価していないでしょう。つまり、現状ではなんもしていないのです。『学び合い』では、能力的にかなり障害がある子を含めて全員が高い達成度を実現します。そんなことを実現するために、「説明する力、ノートの書き方、言語力」無しで実現できるでしょうか?不可能です。『学び合い』をしている子どもたちの会話に耳を澄ませば、教師が分かったように使っているが、実は具体的には何も言えない「説明する力、ノートの書き方、言語力」とは何かを子どもたちが教えてくれます。
Q:クラスの中に上下関係、力関係が出来てしまうと、弱い子がよい意見を出しても消えてしまう。教師がそういうときに、その意見をすくい上げる必要はないか?
A:では、「何人」の弱い子の意見をすくい上げることが出来ますか?また、そのようなすくい上げることが年間の授業の何%で出来るでしょうか?それで十分ですか?一人一人に着目すれば、殆どすくい上げていないのではないでしょうか?教師一人では無理なのです。本質的な解決策は、クラスみんなが一人一人の意見をひろうクラス作りではないでしょうか?
■ [お誘い]大阪の会
大阪の会の第1案内です。
1.日時 2008年11月1日(土) 13:00~17:00
2.会場 チサンホテル新大阪
3.内容
13:00- 受付開始 13:15- 開会
13:20~14:30 西川純先生による講演
13:30~14:45 質疑
14:45~15:00 休憩
15:00~16:50 実践交流会・フリートーク(立ち歩き歓迎)
16:50- 閉会
■ [大事なこと]集まる
フォーラムに関連して、多くの教育団体が高年齢化し、若手が入らないことが話題になりました。そして、我々は若い人がドンドン入るという特徴があることが指摘されています。確かにそうです。でも、もっと凄い特徴があります。それは、中堅も、ベテランもドンドン入ってくるという特徴です。
私も職業柄、様々な教育に関わる研修団体に呼ばれます。そこでの懇親会での話題は、大抵は「最近、若手が入ってこない。今、一番若いので35才ぐらいだ・・」というようなものです。でも、懇親会で集まる人を見回すと、定常の活動に参加する人は殆どいません。それはベテランも中堅も同じです。懇親会は研修というよりも、校長・教頭、また、その予備軍の顔つなぎの会となっているようです。研修団体離れは、これは若手ばかりの問題ではなく、ベテラン・中堅も同様なんです。この原因は、根本的には年齢バランスの崩壊により、学校の教育力が損なわれているためだと思います(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20070930)。では、我々の場合は、若手も中間もベテランも等しく仲間に入り、そしてゴチャゴチャできるのでしょうか?それを考えました。
未整理ですが、「知が新鮮」だということだと直感が語ります。
生み出される「知」より、既に明らかにされた「知」が多くなれば、その世界では過去の「知」をどれだけ知っているかが重要となります。そうであれば、ベテランにとって若手から得るものは多くはありません。逆に、若手にとってはベテランの「知」は圧倒的です。その若手とベテランが二学年構造になれば、押しつぶされるような閉塞感を感じてしまってもしょうがない。中堅だって、若手とベテランがいるから中堅なんです。子育てが忙しい中堅が、自分のことだけを考えたら「もう十分」と思ってもしょうがない。私の知っている研修団体は1960年代、70年代は力があった。だって、欧米のカリキュラム、その背景となった教育・心理理論はベテランにも、中堅にも、若手にも新鮮だった。だから、年齢を超えて購読会も成立しました。ところが今はどうでしょうか?議論が始まると、だれがどれだけ知っているかが重要なポイントとなってしまっています。私が教員に成り立ての80年代でも、授業検討会・懇親会では自慢合戦になっていました。
ところが『学び合い』では違います。経験がものをいうのは、まあ、1年ぐらいでしょう。『学び合い』を本気で1年間実践したならば、本気で10年間実践した人との差はほとんど無いと思います。私が偉そうに書いていることぐらいのことは、1年間も実践すれば血肉になってしまっています。まあ、私の仕事は言葉を整理することなので、その面では一歩先にいっているかもしれませんが、その程度です。少なくとも、私の研究室のゼミ生であれば、そして、『学び合い』の同志であれば、私が色々な疑問に対して、どう応えるであろうことは十分に予想可能であると断言し、それを誇ります。
そっから先は、その一人一人が新たな「知」を子どもたちから学び取ります。そして、それを自慢することを通して、瞬く間に同志の中で共有されます。その結果、それまでの「知」が瞬く間に陳腐になります。例えば、十年前に開発した自己モニターの手法は、今ではテクニックに過ぎないと切っています。どうように、今の「最初の語り」や「可視化」も十年後には切られているのかもしれません。いや、それらが「陳腐だ!」と切れるぐらい進歩したい。
つまり、『学び合い』は、いつでも、だれでもスタートラインにたてます。ベテランも若手も中堅も、です。だから、今の姿がある。いつまでもダイナミックに進歩し続けましょう。課題が陳腐になると集団が腐るのは、子どもばかりではなく、我々も同じです。
追伸 当然ながら、我々の同志は教師ばかりではなく、様々な保護者や、企業の人や、学校事務の方や、医療関係者や、そして中学生もいることを大いに誇りましょう。そんな集団こそ、健全に成長できます。むしろ、教師「も」いるぐらいを目指さなければ。あはははは