■ [Q&A]評価
ある同志からのメールに触発され、メモります。
我々は「みんな」を求めます。そして、「みんな」が成り立たなければ、駄目だ!と評価します。しかし、評価は個々人ごとに出します。グループ学習にありがちな一蓮托生ではありません。例えば、「みんな」が成り立たなくても、テストの点数のよい子は「5」を与えます。いや、「みんな」を理解していない子であっても、テストの点数が良ければ「5」を与えます。これって分かりづらいですよね。
でも、考えてください。教師が成績を2を出そうが、3を出そうが、4を出そうが、5を出そうが、その子の人生には関係ありません(まあ、高校で1を出されると大変ですが)。そんなことより強力なことが教師には出来ます。教師をへとも思わない子どもにとっても、クラス全員から浮くことを恐れます。教師は、クラス全員の前で、クラス全員にとって意味あることか否かを語ることが出来ます。これは凄い権力です。成績の上下などちんけな権力に過ぎません。その影響力を利用し、みんなと折り合いをつけることが個人の高い達成度と、居心地の良さを成り立たせることを伝えるのです。それこそが『学び合い』における学校観です。
つまり、「私はみんなのためにやったのに、何故、3なの?」とか、「●●ちゃんは、みんなのために何もしていないのに、何故、5など?」と言われるようだったら、そりゃ教師の負けです。このことは学校観が分からないと分かりづらいですね。
■ [映画]崖の上のポニョ
SFとういうのは荒唐無稽のようですが、名作と言われる作品はシンプルな仮説を元にした世界観があります。殆どは現在の社会と同じなのですが、チョットだけ違うのです。しかし、チョットだけ違うだけで社会がまるで違います。それが面白い。例えば、ホーガンの「断絶の航海」は、無限の生産性という共産社会を成立させ、今までの偏見をまるで捨て去ったらどんな社会が出来るかという壮大なドラマです。また、「鋼鉄都市」は、人間のプライバシーが極限まで小さくなった社会と、極限まで拡大した社会との出会いです。まるで数学のようです。例えば、ユークリッド幾何学の平行線の公準をちょいと変えただけで非ユークリッド幾何学が成立します。そして、それが現実に適応されるから面白い。
家族でポニョを見に行きました。面白かったし、綺麗だった。良い映画だと思いました。しかし、見終わって半日過ぎて、ふと気づきました。映画ことをあれこれ考えていないのです。理由は、映画にあまりにも多くの仮説や謎や飛躍がありすぎて、その世界を頭で広げることが出来ないからだと思います。
■ [大事なこと]何のため
世の中では北島選手が金メダルを取ったことで話題は持ちきりです。しかし、冷静に考えれば日本人の一人が、その他の人より零点何秒(零点零何秒)早いことがどんな意味があるのだろうか?と思います。もちろん日本人の一人として決勝での泳ぎに喜びを感じます。しかし、その喜びに浸れる時間はどれほどでしょう。まあ、ニュースで流れている時間で、私に関する昨日の総時間は5分もなかったと思います。そして、今から1ヶ月後になれば思い起こすこともないでしょう。
意味がないとは言いません。ただ、その意味を上記の立場で考えるのは大事なことだと思います。国語の先生が集まって、「国語は大事だ」ということを所与として議論します。それは、算数・数学、社会、理科・・・でも同じです。でも、冷静に学ぶ意味を「その内容」で考えると無意味であると結論されます。私はオール1の子どもたちに「何で物理なんて勉強するんだよ!」と言われ続けたから、今の学校観があります。彼らには「科学的概念の形成」などという理科人の理屈は通用しません。
日本人の一人が、その他の人より零点何秒(零点零何秒)早いことが重要ではないと思います。その事実が、どんな社会的影響を持つかが大事だと思います。少なくとも引退後の北島選手は、それを考えないと生きていけないと思います。
■ [大事なこと]質問に応えて3
「これこれの子どもがいるから出来ない(難しい)」という質問は少なくありません。私の基本的な応えは、「では、そのままでいいのでしょうか?」です。明らかに否です。その子が、「三桁の足し算を学ぶ」、「鎌倉幕府の成立の西暦を学ぶ」ということのレベルならば看過できるかもしれません。しかし、その子が大人になり、社会に出るということに関しては看過できるものではありません。
さて、どうするか?まず、教師は解決できないと覚悟を決めるべきです。教師が何とか出来るレベルだったら、とっくのとうに解決できるはずです。教師用のマニュアル本を数冊読み、何回かの研修を受ければ解決できるものではありません。詳しくは「手引き書」に書いてあります。
例えばフォーラムでは、以下のような質問がありました。
●生徒指導の必要な子がいるところで、どのようにして学び合いを行うか?
●自尊感情が低く、周りの子に教えられるのが嫌な子は、教師が教えるしかないのではないか?
●話すことが苦手の子どもにどのように対応するのか?
これらの子どもの問題を「その子」の問題と捉えても解決の糸口は見つかりません。「その子を含んだクラス」の問題と捉えるべきだと考えています。私は暴走族を高校で教えました。彼らは暴走族から出る方が良いことは百も承知、二百も合点でした。ようは暴走族以外に彼らの所属する集団がないのが問題の本質です。自尊感情が低いのは何故でしょう。それは、教師やクラスメートから自尊感情を傷つけられ続けているからです。話すことが苦手なのは何故でしょう。それは話すことを集団に受け入れられるかが不安なんです。
また、
●教えることよりも自分の学習を優先してしまう子→どうすれば教えることに意義を感じてくれるか?
という質問あります。これまた、この子が大人になったとき、そのままでいいでしょうか?否です。折り合いをつけながら、課題解決するということが自分にとっても有利であり、そのような集団の中に所属することが心地良いことを理解することです。もちろん、それが分かるに時間のかかる子はいます。しかし、時間のかからない子もいます。その直ぐに分かる子の行動、また、その子と他の子の関係を横目で見ているうちに分かる子が増えていきます。