■ [親ばか]凄い
今日、日中の暑さに苦労した家内が「エアコンを発明した人は偉い。みんなが幸せになれる」とニコニコしながら言いました。息子は「あのね。僕は四国新幹線を作るんだ」と言いました。家内は「四国新幹線をつくっても中国・四国地方の人だけが幸せになるんじゃない?」と聞くと、息子は「う~ん」と考え始めました。しばらくして、「僕は、本当にいい日本にするんだ!」と宣言しました。私が、「どうやって、いい日本にするの?」と聞くと、「みんながちゃんと働ける日本を作るの」と即答しました。この手の話をしたことは一度もありません。親ばかですが凄いと思いました。
その後、風呂にいっしょにはいると、息子が真剣に聞き始めました。曰く、「あのね、僕が四国新幹線を作る頃には、レールの電車は時代遅れになってしまう。どうしようか?」。私は、「それじゃあリニアにすればいいじゃない。それにリニアを超えるものを作ればいいし、じゃなければ、リニアをものすごくやすく作ればいい」とアドバイスをしました。そうしたら顔が明るくなって「あのね、岡山・高知が200円でいけるようにする」といいました。その安さに、大笑いしました。
息子はやはり、日本を変えるより四国新幹線の開通が目標のようです。
■ [大事なこと]その程度・・・
ある同志からメールが来ました。内容は『学び合い』の実践を見られた方から、「その程度の・・・」と言われたそうです。まあ、そういうことを言われる方が多いことはよく知っています。『学び合い』では、「教科書○ページから○ページまでみんなが全部出来るようになる」という課題を与えることがあります。また、「みんなが(業者テスト)80点以上をとる」という課題を与えることもあります。そうすると「教科書○ページから○ページまで」、「業者テスト80点」ということに着目される方が多いですから。ところが「みんなが」という課題の意味と深さをご理解いただけない。
言うまでもなく、我々は1年間を通して、全ての子どもの人格の完成を目指しています。もし、それが今、実現している、もしくはもうすぐ実現できるという方、そして、そう思っている方には、何も言えません。まあ、本当でしたら、「子どもの声を聞いてください」とか言うべきでしょうが・・・・
しかし、圧倒的大多数の教師は、そうでないことを知っています。
○一年間の数日は練りに練った授業をできたとして、圧倒的大多数は、「教科書○ページから○ページまで」、「業者テスト80点」レベルのことをやっている。
○「教科書○ページから○ページまで」、「業者テスト80点」以上のことをねらっているが、それが出来ない子がいる。そして、それは少なくない。
○「教科書○ページから○ページまで」、「業者テスト80点」以上のことをねらっているが、それが人格の完成に繋がることを、他教科の先生に説明しても納得してもらえない。
そういう方には、そのことをクラス全員で実現した方が、お一人でやろうとするより、いいでしょ?と語ります。
■ [大事なこと]『学び合い』の道徳
今年、『学び合い』による道徳の実践を行いました。具体的には、子どもたちに自分たちの足りないところを考えてもらい、それを良くできるような副読本を作るというものです。小学生1年~6年の実践です。
作品集を見せてもらいましたが、私の一言は「○○さん、教師が手を入れては駄目だよ」でした。実践した院生曰く、「何も手を入れていません」でした。子どもたちの力を信じ切っている私ですら誤解してしまうレベルです。詳しくは、実物を見てください。
今回は一部版で、近日中に全作品集をアップします。HP(http://www.iamjun.com/)の「『学び合い』を学ぶためのコーナー」の「『学び合い』の玉手箱」にあります。
読んでみると、感激ものですよ~ん!
■ [大事なこと]典型的な疑問
最近の洗脳旅行、また、昨日の研修会でも典型的な疑問がありました。あまりにも典型的なので、質問者の最初の一言、二言を聞いたとたんに予想が出来ます。まあ、百人一首の「一文字札」みたいなものです。改めて、手引き書の完全版をチェックしましたが、ありませんでした。そこで加筆しました。現在、手引き書は175ページです。
●評価は連帯責任か?
我々は「みんな」を本気で大事にします。もし、みんなが達成できなかったら、評価をどうしたらいいかということです。具体的には、「みんながテストの点数80点以上」という課題を与えたとき、一人が80点以下だったら、通信簿の成績に関して全員にBやCを与えるべきか、否かという疑問です。これは否です。通信簿に書く評価は、言うまでもなく「個人」です。と応えると、???となる方もいるでしょう。
我々が「みんな」を求めるのは、個々の単元、個々のテストのレベルを超えた、人の道として求めていることです。そこをご理解ください。でも、そうすると「成績に反映されないと、やらなくなる子もいる」とご心配になる方もいるでしょう。でも、考えてください。『学び合い』は「最初から成績なんて屁とも思っていない子」をまじめにさせる力があります。それは「みんな」という強力な圧力なんです。さらに、勉強の出来る子にとっても、「みんな」が達成したとき学校の「成績」が上がり、それ以上のレベル(たとえば、最難関の進学希望先の入学試験レベル)の学力にも影響することを理解します。それに、なにより居心地の良い時間を過ごせることを、すべての子が理解できます。もちろん、連帯責任のような加算を成績に課すことは出来ます。しかし、能力の低い子に、いらざるプレッシャーを与える危険性が高いので、お勧めできません。
蛇足ながら、もう一言。クラス全員の前で、教師が「みんな」を求めることは、成績で脅すより、強力な力があるのです。
●英語の発音
英語の先生が『学び合い』に取り組もうとされると、最後に「発音の学習」に難しさを感じるようです。実は、英語の先生ばかりではなく、他教科の先生も「教師の私しか」と拘る部分があります。他教科の先生は、自分の教科に置き換えてご理解ください。
確かに、発音に関して先生ほどのレベルの子はいないかもしれません(でも、帰国子女がいたりして)。しかし、先生に準じるレベルの子は必ずいます。もし、先生しか教え、チェック出来ないと考えるならば、個々の子どもが、その恩沢に浴せるのはどれだけの時間でしょうか?発音学習に費やせる時間をクラスの人数分で除してください。わずかな時間だと思います。しかし、先生に準じる力のある子どもが指導しチェックしたら、その時間は飛躍的に増大させることが出来ます。技能の獲得に関して、最高の指導をちょっぴりより、それほどではなくとも繰り返しの量が影響することは自明のことと思います。
なお、どうしても正しい発音を聞かせたいならば、古いラジカセを2台ほど用意して、クラスの隅において置けばいいだけのことです。もちろん、そのラジカセを使えるのは数人でしょう。しかし、『学び合い』では問題ありません。『学び合い』では、各自のペースで、各自の課題をやっています。もし、だれかがラジカセを使っているならば、それ以外の課題をやっていれば良いだけのことです。そして、ラジカセが空けば、そこに行って使うだけのことです。それにラジカセで勉強した子どもは、ラジカセ以上のインテリジェンスを持った教材になることは論を待ちません。
●体育・理科の安全確認は?
体育・理科の先生は、子どもを自由にさせると、安全確保が出来ない、と心配されます。では、一斉指導ではどうやっていたでしょうか?大抵の先生方は、長々と、様々な注意事項を説明します。しかし、考えてください。その説明を最後まで聞いている子どもは何人いますか?あまり聞いていないということはご存じだと思います。そして、そのような説明の後、子どもたちは安全確保の確認は、だれの責任だと思うでしょうか?おそらく、教師「だけ」の責任と考えるでしょう。では、三十数人(そしてその大多数が注意事項を理解していない)の子どもの安全確保を、教師だけが出来るでしょうか?不可能です。
『学び合い』の場合は、安全確保に関わる注意を紙に書いておきます。そして、安全確保はクラス全員の責任であることを述べます。教師の安全確保の注意を最後まで聞いてくれるような子どもは、その紙に書いてあることで十分理解します。さらに、クラス全員の責任であることを理解しているならば、その子は、分からない場合は教師に確認するはずです。つまり、教師一人が安全確保するのではなく、少なくとも5、6人の子ども「も」安全確保しようと思います(最悪でも!)。これだけでも効果覿面です。
さらに言えば、授業でやるべきことのすべてにおけるずっと危険であるということはありません。事故が起こるとしたら、この段階というのは特定されます。『学び合い』では、各自のペースで、各自の課題をやっています。従って、「その時」に危険な段階のグループはこく少数です。その時に、そのグループの近くで見てればいいのです。明らかに『学び合い』の方が、「相対的」に一斉指導より安全です。
●発展的な課題を与えて良いか?
『学び合い』をやれば、最低点が上昇し、平均点は当然に上昇します。その時、そのクラスの一番出来る子に発展的な課題を与えるべきではないかと考えます。しかし、否です。もちろん、そうすべき場合もあるかもしれませんが、危険性が高いことをご理解ください。
もし、出来る子に発展的な課題を与え始めたら、その子はどう思うでしょうか?おそらく、発展的な課題を与えられることがステータスになります。そして、教師は「それ」を評価していると判断するでしょう。そうなれば、周りと関わるエネルギーを減じて、自らのみのことに集中し始めます。そして、その様子を投句から見ている子どもたちは、どのように思うでしょう。おそらく、それをまねるでしょう。結果として、あっという間に『学び合い』は崩壊します。
学校教育観をじっくり読み直していただきたいと思います。一人の子に発展的な課題を与えることによって、計算が速くなったり、年号を覚えられることが、その子にとって一番大切なことなのでしょうか?そして、その子に発展的な課題を与えることによって『学び合い』を崩壊させた危険性に見合うものなのでしょうか?「その子」にとって「も」発展的な課題を与えることによって得られるメリットより、デメリットの方が大きいと思います。
個人に発展的な課題を与えるのではなく、クラス全員に発展的な課題を与え、クラス全員が達成するということを求めた方が、「その子」にとっても最善の発展的な課題になります。