■ [親ばか]本日
私の大好きな他大学のある先生が、来年1年間、海外に行かれます。それに関連して、ある方から「西川先生は海外に行きたいとは思いませんよね?」と聞かれました。間髪入れず、「行きたくない」と応えました。次に「どこだったら行きたいですか?」と聞かれたので、「家族のいるところ」と応えました。私は、家内・息子と一緒に朝食を食べ、夕食を食べ、そして一緒に寝ないと死にます。
本日は私の生まれた日です。息子から似顔絵をもらいました。見て、ビックリ、驚異的にうまくなりました。家内からはデジタルの万歩計です。これは笑いました。早めに食べ始め、今日は休日です。ということで、息子のお話劇場がフル回転です。息子はお話を作るのが大好きです。だいたい5~10分ぐらいのお話を、身振り手振り、そして声色・効果音で熱演します。ほっとくと、それが5つぐらい続くので30分以上にもなります。落語に三題噺というのがあります。客席のお客様より3つの単語をいただき、即席に話を作るのです。即席と言っても小一時間以上は時間をもらえます。ところが、息子の場合は、もっと凄い。私や家内の何気ない一言を聞くやいなや話し始めます。よどみなく、その単語が落ちとなる5~10分の話を語るのです。どう考えても、息子が何故あれが出来るのか不思議です。
■ [大事なこと]限界
本日、ある学会に参加し、発表を聞きました。そして、学会の要項を読みました。残念ながら、十数年前に限界を感じたものが、今も限界です。そして、その限界の原因も分かります。
第一の限界は、「学習者の思考プロセス」があると思っているのです。この場合のポイントは、理想的で代表的な思考プロセスが一つ(もしくはごく少数)存在すると仮定しています。子どもの自由な発想を素直に聞けば、そんなものは存在しないのですが、そう仮定しています。理由は、そう仮定しないと、自己否定してしまうからです。なぜなら、全ての研究は「たった一人の教師が教える」ことを前提としています。だから、子どもの思考プロセスが無限にあることを認めると、「教えられない」となるからです。
都合の良いことに、そう仮定しても、まあ、なんとかつじつまが合います。というのは、クラスの2割ぐらいの子どもは教師が教える前に、塾や通信教材を通して学習済みです。3割ぐらいの子どもは、教師がどんな教え方をしても(教えないくても)教科書を読めばある程度は出来ます。つまり、どんな酷い授業をしたとしても、指導要領程度のことは5割は学習が成立します。多少でも指導法を改良すれば、それに1割~3割ぐらいは上積みできます。つまり、良い指導法をすれば8割は教えられます。指導法に関する実証的データで示せる最高はその当たりでしょう。しかし、問題なのはあとの2割を何とかすることは出来ないのです。その当たりの子どもの場合、自分にあった学習でない限り拒否するからです。
第二の限界は、その教科を嫌いな人が納得させられるような、その教科の存在意味を語ることが出来ない点です。理由は、その教科の内容から、一度離れることが出来ないからです。一度、その教科の内容は教えなくても良いんだ、と開き直れば、その教科の本当のすばらしさが見えるのに、それが出来ません。その教科の内容を離れられないので、どこかに無理が生じます。
一度、教師が学習「方法」(教師からみれば指導「方法」)レベル全部背負わなくても良いんだと考えればいいのにと思います。そして、その教科の内容から離れればいいのに、と思います。私はその教科が大好きです。そして、より多くの人たちに、その教科のすばらしさを分かって欲しいと願います。そのためには、その教科を大嫌いな人に分かる土俵で語らなければならないと思います。愛すれが故に、歯がゆいと思います。
■ [大事なこと]寛容
上の「限界」に関連して。
私の研究室は、ある方向性をもっています。しかし、私が博士の学位を出した人の過半数は、『学び合い』ではありません。私はある学会の学会誌の編集委員長です。そして、私の責務は、出来るだけ多様な研究が世に出ることのお手伝いをすることだと思います。つまり、『学び合い』とは全く無関係、いや反する研究が世に出ることのお手伝いをしています。
民主主義の基本は「私は君の意見に反対だ。しかし、君がそれを主張する権利を守るためには命をかける」というものです。私は私の現在の考えに自信があります。しかし、私の考え以外の考え方があることが大事だと思います。生物の種が多様性を失えば、あとには緩慢な死しかないのは、生物の歴史が示すところです。私がある結論を出すのではなく、集団が選択するはずです。そして、ある種群が衰退するとき、次を担う種が多様になるはずです。そして、衰退した種群も、絶滅することなく生き続きます。
生物は賢いものです。我々も他も、状況に合わせて変化します。一つの個体が云々するべきではありません。集団は正しい結論を出すはずです。だから、私は安心しています。