■ [お誘い]メルマガ
昨日、『学び合い』のメルマガが発行されました。お誘いします。(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/sumi-chan/20080914)
■ [大事なこと]変化
S大学のM先生の肝いりで、二つの学会で課外研究を立ち上げました。課題研究とは、同じ思いの人たちが連続して発表する形式です。二つとも、満員だったそうです。凄いことだと思います。研究者の人たちにも『学び合い』の凄さを分かってもらいたいと思います。
みんながやっていることを研究した場合、そこで生き残れるのは、特別に頭の良い人と運のいい人だけです。ところが、我々の研究室では常にトップレベルの業績を上げ続けています。理由は簡単です。みんながやっていない実り多い領域でやっているからです。もし、「教師一人が方法を教える」という鎖から解き放されたならば、どんなことが起こるでしょう(生物学の人以外は分からないと思いますが、カンブリア爆発のようなことが起こります)。
もう一つ大事なことが起こります。それは教科教育学の意味が変わることです。1996年に、私は「一般教科教育学序説」(大学教育出版)という本を企画しました。私の問題意識は、教科学習を研究する学問が教科ごとに分かれており、それぞれの交流がほとんど無いということです。その頃の私は理科教育学を研究していましたが、その当時の国語科教育や社会科教育学で何が行われているか知らずにいて、そして、それによって不利益は生じませんでした。ところが、教科の縦割りを後生大事にしているのは研究者と教師であって、子どもはことはありません。子どもは学習をしており、時間割の一つに過ぎません。私は各科教科教育学の集合ではなく、それを俯瞰した教科教育学を構築すべきだと考えました。その本の中で、その必要性と各科教育学の限界を分析し、上記の必要性を明らかにしました。しかし、それを企画した当時は、その成立の道筋は見えていませんでした。でも、今は見えます。
現在も、クロスカリキュラムを研究する人は少なくありません。しかし、それらの人は、自分の中心とした教科の内容から、他の教科に関連すると思われる部分をピックアップし、それを扱います。つまり、その教科のごく一部しか扱えません。『学び合い』を研究し始めると、教科内容から子どもの姿に視点が移ります。その結果として、教科の縦割りがどうでもよく感じ始めます。私は理科教育学で多くの論文と学会賞をいただきましたが、現状の私の研究室の人の圧倒的大多数は理科を題材とはしていません。本学のM先生も、最初の採用は中学校の国語の先生ですが、理科教育学で博士の学位を取り、これまた教科に拘りません。これはS大学のM先生も同様です。以上は、『学び合い』をやれば、必然的に起こることです。このような先生方が増えていけば、1996年に私が夢見た一般教科教育学も構築されるかもしれません。これまた、楽しみです。