■ [大事なこと]算数国語
すべての教科は国語力が基礎となっています。何となれば、言葉という情報を元に学習しているのですから。算数・数学も文章題では国語力が必要だ、と言われます。息子は小学校2年生です。本好きなので、かなり国語力はあると思います。しかし、算数の文章題で分からないと聞きに来ますが、問題文を読むと「なるほど、こりゃ分からないわな~」と思うことがよくあります。
例えばです、「今日は大学の親友の結婚式です。入り口に係の人がいました。久しぶりの○○が係を務めていました。懐から包みを出し○○に渡し、名前を記入しました。給料取りとはいえ、入社1年で懐具合もそれ程ではない。しかし、あいつのために5本を奮発しました。」と書いてあったとします。この文章には懐から出したものが何であるかを書いておりません。しかし、それが祝儀袋であることを予想がつきます。また、5本が金額であり、おそらく5万円であると想像でいます。なぜ、それが分かるのでしょうか?
認知心理学ではスクリプトと言います。ある状況に起こるであろう様々な知識(時には行動)の集合体のことです。我々はそのような知識のまとまりをもっているので、足りない情報や、不明確な情報を補い、正しく判断が出来ます。上記の文章は、源氏物語を原文で読み、夢野久作のドグラ・マグラを読破できるような国語力があったとしても、一度も結婚式におよばれした経験の無い人には意味不明の文章です。さて、この人は国語力がないのでしょうか?
算数には日常生活にはありえない問いかけをしています。例えば、「アメが5個あります。二人で分けると何個でしょうか?」とう問いがあります。答えは2.5個ですが、そんなのありえるでしょうか?日常生活では、ジャンケンをして3個と2個に分けますよね。息子が聞いてくる文章題は、およそ日常生活では永遠にあり得ない状況のスクリプトを必要としています。そして、そのスクリプトは大学で学ぶ解析学や代数学にも全く役に立ちません。算数で算数だけしか役に立たないことを学ばなければならない馬鹿馬鹿しさ、そして、その馬鹿馬鹿しさを客観的に理解しているにもかかわらず、我が息子に教える馬鹿馬鹿しさ。あ~、馬鹿馬鹿しい。