■ [大事なこと]切らない
本日の「一人も切らない」というメモを書き終わったとき、追伸で書くべきことがあるな、と思いました。が、書き始めると長くなりすぎると思いました。そして、「まあ、今日は基本線を押さえるメモで良いかな」と思い割愛しました。が、心優しき「とんたんさん」よりつっこみがありました。で、独立したメモにしたいと思います。
今から約二十年前のことです。定時制高校の教師から大学に異動した当初の頃です。まだ、三十そこそこで助手でした。当時の現職院生さんと、行きつけの飲み屋で飲んでいるときです。おそらく、どこかの県から派遣された中学校教師の院生さん達だと思います。その人が、私たちの近くで飲んでいました。その酔っぱらいの話の中で、「いいよな~。高校は退学させられるから。中学校は退学できないもんな~」という一言がありました。それを聞いたとたん、私の頭は怒りで真っ白になり、その中学校教師に殴りかかろうとしました。同席した院生さんは、私の表情の変化に驚き、私が立ち上がる前に私を押さえました。そのため、その中学校教師は私が怒ったことすらも気づいていないでしょう。そして、その後、ず~っと生徒の悪口を言い続けました。
義務教育の先生方、これから書くこと、ご不快かもしれませんがお許し下さい。
義務教育の先生方は「子どもを切る」という言葉の重大さが分かっていないのではないか、と思うことがあります。私が「子どもを切る」ということは、本当に切るということです。私が二番目に退学させた生徒は、退学後、やくざのパシリになりました。私の隣のクラスの子どもは、退学して3日後に泥棒に入り警察に補導されました。親には退学が進路変更であり、子どものためだと教師は言います。そして、私も言いました。しかし、あれは嘘です。少なくとも私のいた高校の場合は嘘です。退学して良いことなんてありません。
公立学校の義務教育は退学はありません。一方、高校や、私立の小中学校、大学は退学があります。それは企業におけるクビと同じで、可能です。でも、退学させたいと私は思いません。他の先生からどう思われようと、可愛い子どもです。でも、退学は可能ですので、システムは最悪は退学すべきというシステムになっているんです。担任がどんなに頑張っても退学させなければならないし、周りもそれを期待しています。ところが義務教育の場合は、退学させられません。従って、退学しないというシステムになっています。つまり、どんなに欠席が多くても、どんなに成績が悪くても、どんな行動をしても、ズルズルと学校とつながりを持たせることが可能なんです。だから「いいよな~。高校は退学させられるから。中学校は退学できないもんな~」という言葉を聞いたとき、怒りで頭が真っ白になりました。
義務教育の『学び合い』では最後の最後まで、教師は希望を持つことが出来ます。少なくとも、制度的に断ち切られることはありません。どんなに欠席が多かろうと、どんなに成績が悪かろうと、教師がそれを諦めることを制度的に求められることは無いのです。もちろん、自分にそれを乗り越えられる力がないかもしれません。しかし、自分の数十倍の力がある「かもしれない」子ども集団に希望を託すことはできます。そして、それによって子ども全員が得るものがあることを、『学び合い』は理論的にも実践的にも下支えしています。だから教師が先読みして諦める必要はありません。求め続け、夢を語って悪いわけ無い。ある特定の子が、最後の最後まで出来なくたって、夢を語って悪いわけありません。子どもが追い詰められるのは、「みんな」を出来ないことを責められ続けるからです。子どもへの語りは、厳しいばかりでは駄目です。そうすれば、一生懸命やっている子どもが腐ってしまいます。やっていることを褒めつつ、求め続ければいい。出来たら凄いことを、ニコニコ語ればいい。「叱り」、「褒め」、「からかい」、「脅し」、「おだてる」・・・。教師の語りは多様です。子どもを見ながら考えてなければなりません。それが出来るならば、求め続けることは可能です。
が、例外はアスペルガーの一部の子どもです。『学び合い』は関わりによって問題を解決します。しかし、アスペルガーの一部の子どもの場合は、関われば、関わるほど人を不快にします。そうなると、関わる子どもがヘトヘトになります。これは教師にとって辛い。これを乗り切るポイントは、「見ない」のです。もちろん、目をつむれと言っているわけではありません。自分で解決できないことを、詳しく見ることは避けるべきだ、ということです。見過ぎれば、自分で解決できないことを、自分で解決したくなります。そして、失敗します。
重要なのは「仲良く」することを求めてはいけないということです。つまり、その子と距離をおくことを認めることです。一方、その子と絶縁したり、ましてや悪質な虐めに至ることは絶対に許しません。そして、「みんな」を求めます。これはみんな知っていることです。考えて下さい。職員集団には「困ったちゃん」がいる場合がいますよね。でも、だからといって職員全員がその人を無視することはないですし、石を投げつけることもありません。どうやっているでしょうか?それは、出来るだけ距離をおきつつ、折り合いをつけてつきあっているはずです。あれで良いんです。
アスペルガーの子どもは、『学び合い』において例外的に時間がかかることは「気になる子の指導に悩むあなたに」に書いたとおりです。そして、そこに書ききれなかった多くの同志から聞いています。しかし、「切る」ことが可能な職場でさえ、切ることはまずしません。ましてや、義務教育で切るわけありません。教師が出来るのは、折り合いをつけつつ、「みんな」が課題を達成することを「緩く」もとめ「続ける」ことだけなんです。そして、それを乗り越えた同志は少なくありません。
もちろん、上記を超えた事例が全くないとは言えません。ただ、それであっても教師(正確には教諭)は切るべきではありません。切る判断をするのは管理職です。従って、繰り返します。少なくとも義務教育においては、そして、大多数の高等学校においては、教師は最後の最後まで「みんな」を求めるべきです。
追伸 ただし、個々の状況に置ける教師の行動は、自分の頭で考えることは当然です。あ~、やっぱ長くなっちゃった。
追伸2 もちろん、義務教育の先生方の中には「切る」ことの恐ろしさを十分に知っておられ、そして、経験されている方がいらっしゃることは理解しています。
■ [大事なこと]一人も切らない
ゼミ生から質問を受けました。そのゼミ生は「平常の学校では切られてしまう子どもを切りたくない」という志を持ち教職大学院に入学しました。そして、それ故に我がゼミに所属しました。そのゼミ生が『学び合い』の授業を参観したとき、時間の最後まで分からなかった子どもがいたそうです。そこで、私にそのような場合はどうしたらいいかを聞きました。久しぶりに暑苦しく学生に語りました。何度もメモったことですが、再度メモります。なお、事例は小学校ですので、そのように説明していますが、中高の先生は翻訳してご理解ください。
まず、その学生に確認したのは、「平常の一斉授業において、分からない子どもをそのままにおいて先に進むことはよくあることである。そして、その頻度や量は『学び合い』より遙かに多い」ことです。これは簡単に同意してもらえました。つまり、そのような状況があったとしても、『学び合い』の方が優れています。一斉指導が出来るのは、そういう状況が起こっているということを見にくくして教師の心の平安を維持することぐらいしかできません。
次に、1時間単位で帳尻を合わせることには無理があることを説明しました。「1時間ごとに課題を与え、すべての子どもがそれを達成する」という課題より、「単元程度のまとまりを課題として与え、すべての子どもがそれを達成する」という課題の方が楽であることを説明しました。現職の先生だったら、毎日、校長室に呼ばれて進捗状況を報告するより、任せて信じてくれる方が効率が良いことは了解していただけるでしょう。だから、そのようにすれば、最後まで分からない子どもが生じる危険性が減じることを説明しました。
さて、以上のようなことをした上でも、最後まで出来ない子どもがいたとします。その場合は、どうしたらいいか?という課題として整理しました。その上で、ゼミ生に「君だったらどうする?」と聞きました。ゼミ生は「もう1時間与える」と応えました。そこで「じゃあ、もう1時間与えても駄目だったらどうする?さらに1時間与えても駄目だったらどうする。また、1時間を与えたら出来たとして、数人が最後まで出来ないという状況が、毎時間起こったらどうする?明らかに、学期ごとに進めなければならないところまで進めないよね。じゃあどうする?」と聞きました。
ゼミ生は「放課後に補習をする」と応えました。「じゃあ、毎日、そのようなことが起こったらどうする?それも、毎日6時間の授業の2、3時間、そのようなことがあったらどうする?毎日、帰宅が数時間遅れるよ。共稼ぎの家庭だったら、保育園に迎えに行く時間が毎日、数時間遅れるよ。自分の子どもに寂しい思いをさせて良いと思う?」と聞きました。そして、「どうする?」と聞きました。応えられません。
私:どうしようもないよね。だから、出来るだけのことをした上で、そのような子どもを切るよね。でしょ?たしかに、どうしようもない。だから、多くの先生がそうしているんだよ。でも、子どもの切るということは教師の心には負担だよ。だって、子どもを救いたいという志で教師は自分の職業を選択したのだから。だから、そのような心の負担を合理化するために、多くの教師は三つの方法をとるんだ。第一は、部活に燃える。つまり、教科指導の限界を感じ、教科外の時間に燃えるんだよ。テレビドラマによくある熱血教師だよ。でも、問題がある。部活に参加する子は全員ではない。テレビドラマには、教師に反発する不良が部活で更正するドラマがあるけど、そんな子どもはまだ救いがある。本当に救わなければならない子どもは、教師に反発する子どもではなく、教師に反発すらしない無気力な子どもだよ。そんな子どもは部活には参加しない。そして、学校教育の大部分は教科指導なのだから、すべての子どもにとって大多数の時間は救いがないということになる。
第二は「面白い授業」に燃えるんだ。ちなみに高校教師だったときの私はこのタイプだったよ。私の場合は、子どもの大多数が純粋無垢のオール1、暴走族、境界児だったこともあって、ごく早い時期に全員を分からせることは無理だと見切った。で、私がやったのは、学校にいる時間を楽しいものにしてあげようとした。話術、ゲーム性の高い教材、面白実験をマシンガンのようにぶつける、そして、本当は分かっていない子どもに対しても「お~、おまえは分かるじゃないか。天才じゃないか?」と価値づける。それによって、クラスの限りなく全員が飽きない授業、そして、分かったつもりになる授業を目指した。これって、難しいようで実は比較的簡単だよ。
さっきの部活に燃える教師も、おもしろ実験にも燃える教師も、両方とも気づいている。それは全員は無理だということ。でも、どうしようもないと思っている。結局、心の負担は最終的には解決できない。そうなると最後の対応をする。
子どもが悪い、親が悪い、社会が悪いと言い始める。そして、だからどうしようもないのは自分には責任はないと合理化する。まあ、「子どもが悪い」と言うことに抵抗がある人は、「地域性があって・・・。新住民と旧住民が・・・」と言います。でも、表現の違いで結局同じ。この合理化は、一番、教師の心の負担を軽減できる。でも、これを言い続けると、教師という職業に対して誇りを持てずになり、最終的には心を病んでいく。そして、子どもたちを敵と見なしているので、子どもたちも教師を敵と見なすようになる。
大抵の教師は、その場その場に応じて、この3つの対応を取り混ぜで合理化する。でも、いずれにせよ解決にならない。そして、無意識に考えないようになるんだ。でも、このような気持ちがある限り、本当の『学び合い』は出来ないよ。だって、今言った全部は「あの子は出来ないのはしょうがない」と思っているから。教師がそのように思えば、子ども、特に出来る子、オピニオンリーダーの子どもがそれを察し、その子も「あの子は出来ないのはしょうがない」と思い始める。そして、「あの子」の人数が2、3だったのが、いつの間にか5人になり、7人になり始め際限が無くなり、『学び合い』は崩壊する。だから、何が何でも「あの子は出来ないのはしょうがない」とは思っては駄目なんだよ。
じゃあどうする?現実には「どうやっても出来ない子がいる」、でも、「あの子は出来ないのはしょうがない」とは思ってはいけない。どうする?
ゼミ生:(無言)
私:考えてよ。学校教育で学ぶことで、絶対に学ばなければならないことなんてある?無いよね。九九を覚えなくても、計算機があればいい。漢字の書き順が分からなくたって、日常生活では困らない。日常生活で跳び箱を跳ばなければならないことなんてあり得ない。だから、絶対に学ばなければならないことなんてないんだ。学校で学ぶべきものは、色々な人と折り合いをつけて課題を解決すること、それが大事なんだよ。ただし、それを学ぶためには、仲良くすること自体を目的にしても駄目で、漢字の九九を覚えること、書き順を覚えること、跳び箱を跳ぶこと、そんな教科学習の課題がベストなんだよ。
だから、ある日の課題が出来ない子がいることを自体を教師がカリカリする必要はない。重要なのは「そんな子が生じたクラス集団」にカリカリすべきだよ。その子を分からせるのは教師の仕事ではなく、クラスの仕事だよ。もし、クラスの子どもが本来すべき「その子を分からせる」ことを達成できない尻ぬぐいのために、時間を与えたり、ましてや教師が補習したりするのは本末転倒だよ。そんなことすれば、子どもは「その子を分からせる」ことは教師の仕事だと思ってしまう。だから、「その子」がいたとしても、与えた時間が終われば、次に進むべきだよ。
第一に、ある課題が出来なかったとき、それを教えることより、集団を作る方が大事だよ。集団がつくりあげられたら、後で補うことは可能だよ。例えば、九九が分からない子がいたとするよね。そこで無理矢理、九九を分からせようとしても無理だよ。でもね、その子に九九を教えようという集団ができあがれば、その子も九九を学ぼうという気になる。そういう時期になれば初めて勉強が成立する。対処療法ではなく、根治療法が大事だよ。
だから、教師は「その子」を考えるのではなく、集団を考えるべきだよ。そして、このクラスだったら、「みんな」が出来ることを信じられるという気持ちになれると思う。その気持ちを維持し、その大事さ・夢を語り続けることが教師の仕事だと私は思う。
■ [う~ん]唖然とする
職業柄、色々な先生と話します。基本的に、『学び合い』に興味はない人、反対の人とは議論しません。『学び合い』に反することを主張されても、「そうですね。」と言ったりもします。だって、その先生は悪い人ではなく、善意の人です。いくら話し合ってもしょうがない人と議論し、お互いに不愉快になるのは非生産的ですから。そして、結局、そのような人を説得できるのは『学び合い』を理解する人が増えることによって、私には説得出来ない人を説得できる人が生まれるしかないのですから。逆に言えば、腹の中で「そう思っていない」のに私に話を合わせてくれる人も多いです。まあ、大人の社会なのですから、それは大事なお約束です。
が、たまに、しつこく議論をふっかけられると、私も本格的に論破したくなることもあります。大抵は雪隠詰めにして勝てるのですが、相手が感情的になり、「やってもうた~・・」と後悔することも少なくありません。
が、希に、「こりゃだめだ」と議論する元気を失うこともあります。最近2件ありました。
一つ目の事例は、『学び合い』は教えない、ということを納得できない中学校の先生との議論の時です。私としては、教えないのではないことを説明しました。つまり、「例えば3桁の足し算の繰り上がりの程度のことは子どもでも教えられるから、教師は教えなくてもいい。しかし、何を学ぶべきか、人の道はどうあるべきかは教師しかできないのだから、そこは教えるべきだと主張しているのです」と説明しました。その先生は、「例えば、子どもが教えられたとしても、3桁の足し算の繰り上がりのようなことは教師が教えるべきだ。教えなければ教師の仕事の放棄だ」と言われます。そこで、「医者の仕事は、注射を打つ、聴診器を使うことではなく、病気を治すことです。病気を治すのに必要ならば、注射を打ちますし、聴診器を使うのです。教師の仕事は分からすことです。分からすことに有効ならば、教師が教えればいいと思います。しかし、教師が教えることが、分かることにマイナスに働く場合は教えるべきではありません」と説明し、「勉強しない!を言わない授業」で書いたような事例を挙げて、子どもの多様性と教師の自動化のことを説明しました。しかし、その先生は「子どもが分かることにマイナスに働いたとしても教師の仕事は教えることだ」と言います。正直、腰が抜けるほど驚きました。聞き間違いかなと思い「一つ確認させていただきたいのですが、教師が三桁の足し算の繰り上がりを教えることが、子どもが三桁の足し算の繰り上がりを学ぶことにマイナスに働いたとしても、教師が教えるべきだとお考えですか?」と聞きました。その先生は、「教師が三桁の足し算の繰り上がりを教えることが、子どもが三桁の足し算の繰り上がりを学ぶことにマイナスに働いたとしても、教師が教えるべきだ」とおっしゃりました。言葉を失い、その先生の顔をまじまじと見てしまいました。
もう一つの事例は、小学校の電気教材のことで話したときのことです。その先生は電気の流れをイメージ化するための教材を作られて、それを論文にまとめる相談を私にされました。私自身は、その手の研究は意味がないと思って今の『学び合い』に進みました。ですので、「意味無いな~」と思いつつも、その手の論文を日本で一番書いた者として、どう書いたら学術論文になるかのノウハウは人一倍あります。だから求められれば、ちゃんと応えます。
ひとしきり説明をしたあとに、「これはこれで論文になると思うけど、一言、言わせてね。これはこれで有効だと思うけど、この教材が有効であるのは、電子というものがあって、それが粒であるとイメージできる子どもだけだよ。でも、あなたの指導案だと、5分ぐらい教師が説明して、直ぐに実験に入っているけど、ちょいと無理があるように感じるよ。まあ、実験が始まれば、分かる子と分からない子が相談して補っていると思うけど。この5分間ぐらいの教師の説明でクラス全員が分かると思うの?」と聞きました。その先生は、「はい」と、こともなげに応えるのでビックリしました。ビックリした私は、「でも、あなたのクラスには知能指数が90を切るような子どももいるんじゃない?」と聞くと、うなずいてくれました。そこで、「そんな子どもも、5分間程度の教師の説明で分かると思うの?」と聞くと、これまた「はい」とこともなげに応えました。そして、「もちろん、どれだけ理解するかは分かりませんが、この実験を理解する程度のことは分かると思います」と応えます。そこで、「でもね、例えば、ロシア文学に出てくるロシア人の名前を読んだとき、違和感を感じ、覚えられないってことない?フランス語だっていい、アフリカの言葉だっていい、とにかく見知らぬ言葉を聞くと、我々だって違和感を感じ、それを飲み込むのには抵抗感があるんだよね。我々って、とても変な人間なんだよ。だって、我々は現在の学校教育にフィットしているから大学まで行って、さらには大学院まで行っているんだ。その我々でさえも見知らぬ言葉を聞くと、違和感を感じるんだ。勉強が不得意な子どもにとっては「電子」という言葉がそれに当たるよ。5分間ぐらいの教師の説明では、その違和感は解消されないと思うよ。解消されなければ、あなたの教材は有効ではないと思うけど。それでも5分間程度の説明で大丈夫なの?」と聞きました。しかし、「もちろん、どれだけ理解するかは分かりませんが、この実験を理解する程度のことは分かると思います」と応えます。私は言葉を失いました。私は、「私は大学教師で、あなたは小学校教師だよ。小学生に関してはあなたの方がプロだよね。でも、失礼ながら、あなたは子どもを知らなすぎる。ICレコーダーで子どもたちのつぶやきを聞くと良いよ。」と言ってしまいました。
ここではっきりと明言しますが、お二人とも「本当」に良い先生です。現場では指導力も評価され、子どもを愛し、実践されています。だから、人間的に否定する部分はありません。私より、ずっと優れた教師です。でも、私は言葉を失いました。私にはそういう人を説得する力はありません。同志各位、よろしくお願いいたします。