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2008-10-15

[]三宮の会 23:06 三宮の会 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 三宮の会 - 西川純のメモ 三宮の会 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日は兵庫の三宮で飲み会をしました。以前からの同志3名と、初めてお会いする先生が5名です。楽しかった。

 生物は自己複製をします。しかし、自己複製が完全すぎると変化がありません。そして、環境は徐々(時には劇的)に変化するので、変化がない生物種は緩慢(時には劇的)に衰退します。それ故、どんな生物種も基本的には保守的であり、同時に革新的な個体を一定の割合含んでいます。後者は多すぎると安定性を欠き、後者が少なすぎると死滅します。『学び合い』は革命的に今までの考え方と違います。だから、それを拒否する人が多くいることは、生物種として健全であると思います。でも、同時に変化に対応する少数者はいるものです。

 本日おいでになった方々は、その少数の革新者です。その少数の方が変われば、それは多くの安定を担保している方々を変える端緒となります。本日の会をお世話いただいた方は、本年度になってから『学び合い』に出会った方です。11月の大阪の宣伝パンフレットを配った方は、昨年の11月から『学び合い』をトライし始めた方です。そして、大阪の会で発表されるもうひとかたの同志でさえ、昨年の6月からの同志です。

生物集団の中には、そして教師集団の中には、1年ぐらいで、学ぶ側から広める側に変化する方がいます。なぜなら、子どもの『学び合い』と同じで、広めることによって、自分が高まることを知っている方からです。今日の出会いをきっかけに、同志が生まれることを信じています。

ま、そんな難しいことはさておいて、私から見たら「かわいいかわいい」と失礼ながら感じてしまう先生方の、迷いと向上心を肌で感じ、ちょいと飲み過ぎてしまいました。ということで、寝ます。ぐ~・・・・

[]信念 06:45 信念 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 信念 - 西川純のメモ 信念 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 最近、『小学校5年生の子ども・・。学習障害ですが。その子どもが、なかなか学びあいでうまくいきません。小数のかけ算や割り算では、99を覚えていないため、99表を見ながら行っています。やり方は理解できるものの・・・。うまくいきません。どの子ども、「先生、どうやって教えればいいのかわからない」といわれます。そういう場合は、どうするばいいのか・・・』(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20081012/1223817501)というお悩みメールを受けました。

 それを読んだ同志から別件のメールと一緒に以下のメールが来ました。

 『この間お話したうちのクラスの子に対しては、他の子どもたちは、「○○(名前)、あそこに電卓あるから」といいます。教室のコンピュータが自由に使えるので。

昨年5年生の時、同じ小数のかけ算、わり算の3.2×3なら、例えば3×2を電卓で計算して、喜んで帰ってきて、次に3×3を電卓で計算して、足し算するために電卓で計算して、9.6と答えを出します。小数点をどういうルールでつけるかは他の子が教えます。おもしろいのは、初めから3.2×3の答えを電卓で出さないところです。どうしてかというと、それでは彼もおもしろくないからだと思います。そこが彼のすばらしいところだと私は思います。

 それでいいのか?と突っ込まれると、うーん、どうなんでしょうね。確かに、その時の単元テストでは電卓が使えず、その子はコテンパンにまちがえました。テスト後、その子の友達は「しまった、○○に電卓使わせればよかったね、先生」といいました。そうだよねえ、と私も思いました。だって、九九ができないだけで、筆算の手順は学び合ってたわけだし。

 そこでの私の仕事は、普段から使えるような古いコンピュータを他の先生からもらって置いといたことぐらいです。で、今も彼はコンピュータの電卓を使ってます。上手ですよ。

 って、ブログに書き込めって感じですね、すみません。引っ込み思案なので。』

 そこで私は、「引っ込み思案の○○さんの代わりにアップするから、その子の背景や周りの子ども関わりなど、もう少し説明してね。」とお願いしました。

 そして以下の返信を受けました。

 『かなり個人的な内容ですし、アップは必要ないかなあなんて思うのですが、もう少しこの間の子のこと。

 一言でいえば、一昨年まで先生たちにいじられてきて、授業では友達からほったらかされてきた子、です。それまでの先生たちは善意でしたことだとは思いますよ。しょうがないもの、この子はこれでいい、って。(これを善意というか?と思いますが)

 医師の診断で知的な障害があります。先日認定を受けて、手帳も取得しました。家庭的には、母と妹とたぶん血のつながりのない父(というか若い男)。父は働かず、家でゲームしてます。母は先日、職を解雇されました。母はネットで店を開きたい…なんていってましたが。先日父がなんだか腹を立てたらしく、パソコンを投げて壊したと彼が言ってました。今もパソコンは壊れたままだそうです。

 そんな感じですから、他の友達とはずいぶん違う生活を生きてきました。でも今彼は、少なくとも今のクラスでは、他の子とともに生きています。友達と同じ課題を私から要求されます。友達は5年生から変わりました。授業でも彼をかまうようになった。それは子どもたちも自覚してます。

 それはもう手を変え品を変えです。初めのころ、できるタイプの男の子がよくかまってましたが、怖くて厳しいのでなかなかうまくいきません。前の担任と同じです。やさしい女の子のところへ彼は行きます。女の子はゆっくり丁寧に教えます。でも分かりません。分からないけど女の子の指示には従います。従ううちに簡単な問題が解けます。ひとけたの足し算とかですが。女の子が言います、すごーい、できるじゃーん。彼がうれしそうに笑います。女の子は自分の友達に彼を託します。自分の学習が遅れるからとりあえず託してその間に自分の分を解きます。その間、女の子の友達が彼のところに来ます。教えます。分かりません。でも、そこで聞いたことを彼は他の子のところへ行って話します。それ違うって。こうだよ、って。分かんないけど言います。(ここ本当におもしろい)すると他の子に突っ込まれます。何で?こうだってば。彼は逃げます。(ここもっとおもしろい)でも逃げられません。初めの女の子につかまります。教えます。すごーい、できるじゃーん。繰り返しです。初めのころはこんな感じでした。今も似たようなものだけど、自然です。ずーっと授業をみんなとしています。

 今年は私がTTの先生に『学び合い』のクラスであることを宣言しているため、TTの先生は私と同じ動きをします。見て、にこにこして、信じて、任せる。別の出張授業の先生は、どんな授業がいいか子どもたちに聞いてくれました。子どもたちはいつもやってる授業がいいといったそうです。どんな授業なの?と聞いてくださったその先生に、子どもたちは、見たい?と言ったそうです。それで、うちのクラスで一番できる女の子が教科書ちょっと見て、課題を出したそうです。で、『学び合い』。

 この1年半、今のクラスで私は、「みんな」を要求して、その意義を自分なりに話してきました。完璧、なんて思ってません。最低点の向上は果たせていないし。(ただし、平均だったら彼を入れて82点はありますよ。彼はだいたい15点くらいはとるから。うれしくないけど)うまくいかないことだってあるし、つい余計なことを言って邪魔したこともある。彼を叱ったことだってある。ただ、幸せは常に彼らに感じさせてもらってる。

 ちょっと脱線しましたが、彼を幸せにできるのは私じゃない、といつも思っています。

「子ども個人のことを考えてしまいます。ここらへんの気持ちの切り替えは難しい」というayuayu0515さんは正しい。ただ、その子の幸せを私ひとりの力では実現できない、という自覚が、私にはある。信念、としか言いようがないですけど。』

 これを読まれて、どういう印象を受けるでしょうか?私は「淡々としている」と感じます。でも、上記を見れば、淡々としていられるような子どもではないことはおわかりいただけると思います。のめり込むのでもなく、また、見捨てるのでもない、もう一つの道があるのです。それは、子どものレベルではなく、集団の管理者としての立場で物事を見続けるのです。