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2008-11-19

[]蛇足 10:16 蛇足 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 蛇足 - 西川純のメモ 蛇足 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 馬鹿馬鹿しいですが、蛇足です。以下を達成するためには、教師は「みんなが課題を達成すること」を子どもに求めなければなりません。少なくとも、信じなければならないと、必死に思いこんでください。だって、「みんなが課題を達成することを求め続ける」ことを子どもに求めたら、甘くなりますよ。子ども全員が「こりゃむりだ」と思っても、そして実は教師自身も不安に思ったとしても、教師は必死に達成することを求めてください。夢を語ってください。その方が、良いに決まっています。すくなくとも「出来ないよな~」っと思っているよりは。

[]求め続けること  09:06 求め続けること  - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 求め続けること  - 西川純のメモ 求め続けること  - 西川純のメモ のブックマークコメント

 初期段階と充実段階の違いは「みんな」が徹底しているか否かの1点です。ただし、この「みんな」とは「みんなが課題を達成する」ではなく、「みんなが課題を達成することを求め続ける」という意味です。おそらく、「みんなが課題を達成することを求め続ける」であれば、たいていの場合は、「みんなが課題を達成する」になります。そして、「求め続ける」と言ったとしても、具体的に何を思い、何をするかは多様です。明らかに知的に障害を持つ子の場合は、健常児とは違ったことを思い、何をするかは違うでしょう。しかし、そのような子、及びその他の子が、互いに関り続け、何かをやろうとしているならば、「求め続けている」と判断してOKだと思います。

 ところが、学校教育の目的は何かという『学び合い』の学校観が徹底せず、教科内容に引きずられると迷いが生じます。つまり、どうしても課題を達成できないとイライラしてしまいます。怒りっぽくなり、暗くなります。そうなれば子どもが腐ります。そして、教師は・・・・、と、負のフィードバックがかかってしまいます。それを恐れて、みんなが達成できるような「ひねった」課題をつくろうと頭を使います。また、課題達成ではなく、関わること自体を目標に与えてしまいます。気持ちは分かりますが、それでは極めて質の高い初期段階までには行きますが、充実段階には進みません。

 全国の数千ある野球部では、毎日、甲子園の出場、そして優勝を目指して練習を続けています。でも、甲子園に行けるのはほんの一握りの学校で、優勝できるのはただ1校です。従って、無理なのです。さらに言えば、地区大会レベルでさえ、全員が出場できません。が、それを目指して数千の野球部の子どもたちは練習に汗を流しています。野球部の顧問に必要なのは、冷静に分析して実現可能な目標を与えることではありません。高い高い目標を与え、それを求め続けることの意味を語ることです。もちろん、その話の中には、実現可能な目標は「ほんの途中過程」として語られるかも知れません。でも、中心はみんなで高い高い課題を達成することの意味を語り続けなければなりません。もし、それをやれないならば、部はどうなるでしょう。おそらく、1回戦あたりで敗退するかも知れません。いや、それ以前に「自分はどうせ試合に出られない」と見切った子どもが退部し始めるでしょう。そんな部が部として存立するか危ういでしょう。

 野球部の顧問は、冷静に考えれば甲子園出場はおろか地区大会上位さえも無理であろうということは分かっています。そして、最後までレギュラーになれない子がいること、そして、それが誰かも分かっています。でも、甲子園出場、優勝の夢を語らねばなりません。先回りして、目標を低くしてはなりません。「自分はどうせ試合に出られない」と見切ってしまう子どもに対しても、ちゃんと意義を語らなければなりません。そりゃ簡単ではありません。でも、それこそが教師の職能です!教師の職能は「右」と「左」の書き順を知っていることではなく、それをうまく教えられるかではないのです。もっと大事なことがあります。

追伸 このあたりを理解するのはかなり難解かもしれません。2年間、私のゼミで卒業研究・修士研究をした我がゼミ生(OBOG)でも理解していないな~っと思うことは少なくありません。『学び合い』の学校観は、読めば当たり前のことを書いているに過ぎません。しかし、それを徹底できるのは大変かも知れません。そして、それが出来るか否かは、子どもたちは有能であるという『学び合い』の子ども観がどれだけ腑に落ちているかです。