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2008-11-30

[]東京の会 21:54 東京の会 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 東京の会 - 西川純のメモ 東京の会 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 東京の会に関しては、以下をご参照下さい。

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/Kyo_Tokyo/20081130

[]補足 22:20 補足 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 補足 - 西川純のメモ 補足 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 蛇足ながら、以下のことを補足します。

 私は『学び合い』に拘らず、他の人のことを組み込んだ目標を設定し、行動する人を尊敬しています。本当により広い群れのためにやっている人であれば、偏狭なイデオロギー論争ではなく、そのために何が出来るかという事実のレベルで議論し、高め合うことは出来ます。

 私が拘っていることは、「家族仲良く、健康に」であり、それを実現するために「一人も切らない教育」を目指しています。そして、それを実現するために『学び合い』の学校観・子ども観が最善であると信じています。しかし、それ以上のものを見いだせば、直ぐに代えます。従って、方法論レベルのことなんて、どうでも良いことです。それらは今の私にとっての見え方の一つにすぎません。

 もう一つは、以下のメモも、その他のメモも、個人の言動をその人の特性と考えるのは我々の作法ではありません。あくまでも関係の中の「役」であると理解し、関係を代えるのが我々の作法です。我々のやるべきことは、個々人をどうこうするより、関係を代えるためにやっています。

 私が「悪いわけではないし、愚かであるわけではないし」と書く理由は、上記の通り、本気でそう思っています。

[]クイズ 19:41 クイズ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - クイズ - 西川純のメモ クイズ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 クイズです。もし、勉強の出来る子どもが「私はもう分かってるから、自習したいんだけど」とか、ある子が「私は自分でこつこつやるほうが得意だから、一人で図書館で勉強したいんだけど」と言われたら、どう答えるでしょうか?

 まあ、人と関わることの意味を語るでしょう。でも、それが度がすぎてしまうと、「男女で一緒に勉強しなさい」とか、「いつもと違う人と勉強しなさい」とか、「違った学年で勉強しなさい」とか・・・関わり方の方法を求めてしまいます。しかし、これでは学び合うこと自体が目的であるグループ学習と一緒になってしまいます。まあ、対処療法としては有効だし、『学び合い』の初期段階の説明としては「あり」だと思います。でも、本当だったら「いいよ」と応える方が良いと思います。そして、「君が勉強したい方法でやっていんだよ。だから、一人でやっても、今日の課題を超えたものをやったことをやって良いんだよ。でもね、先生がみんなに与えた課題は、みんなが課題を達成することなんだ。君が君にあった方法で学ぶことは自由だけど、君もみんなが課題を達成することに対する責任を負っているんだよ」と語るべきです。つまり、何が課題かをハッキリさせるべきだと思います。

 子ども達が自分が分かるために立ち歩き、相談し合う段階は、本当の意味では『学び合い』ではありません。みんなが課題達成するために、自分が分かることが必要で、そのために立ち歩き、相談し合うのが『学び合い』です。また、自分は分かっているが分かっていない人がいないか、それを意識し立ち歩き、相談し合うのが『学び合い』です。これは、大人の集団でも同じです。例えば、昨日の宮城の会での模擬授業での場面でも、まだ『学び合い』が腑に落ちていない人の場合は、立ち歩けないし、立ち歩く意味を見いだせないし、立ち歩いたとしても自分が分かるために立ち歩きますし、また、関わることの楽しさを純粋に楽しむために立ち歩きます。でも、腑に落ちた人の場合は、「みんな」を達成するために自分が分かろうとするし、「みんな」を達成するために達成できない人はいないかを探し始めます。

大人にせよ、子どもにせよ後者の人は全てであることベストですが、必ずしも、全員でなければ『学び合い』は成立しないわけではありません。後者の人が集団の中に一定以上いれば『学び合い』は成立します。また、本来は後者の人であったとしても、構造の中で前者の役を演ずる場合も十分にあります。しかし、少なくとも教師は、そしてありとあらゆる職業における管理職は、後者(潜在的にもふくめて)である必要があります。なぜなら、その違いが分からないその人の管理する集団は、初期段階を脱することはかなり困難だと思います。なぜなら、「私はもう分かってるから、自習したいんだけど」とか、ある子が「私は自分でこつこつやるほうが得意だから、一人で図書館で勉強したいんだけど」という子どもの問いかけに、ちゃんと応えることの出来る「腹」が無いからです。

私は自分のクラスである学生に対しては、少なくとも私の管理下にいては「西川研究室の目標」の達成を求めます。一応、ブログなども勧めます。というのは、教育の改善に向かえる方法だと思うからです。しかし、それを拒否する権利を常に留保しています。しかし、その場合においても、「教育の改善のために何をなせるか、成そうとしているか」を説明することを求めます。何故なら、先に述べた後者を生み出したいと願っているからです。しかし、私の管理下を離れれば、自由です(当たり前です。あははは。それは全国の同志に対しても同様です)。その後の行動は、その人のお考えいかんです。しかし、どう行動するか、いや、どう考えるかで、『学び合い』が出来るか否か、それが初期段階に留まるか、充実段階・発展段階に進むか(もっと正確に言えば、高い段階を維持し続けられるか)否かが決まります。

追伸 本日の朝一番に仙台を出発しました。なんと、T県のO4とばったりと一緒になり、ということで直江津に到着するまでの5時間、ずっと、話し合いました。話題の中心は上記のような「みんな」のことです。5時間の殆どをかけて、教師が出会う、ありとあらゆる場面の事例を、『学び合い』の学校観で読み解くと何が見えるかを説明しました。

[]西川研究室の目標 19:41 西川研究室の目標 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 西川研究室の目標 - 西川純のメモ 西川研究室の目標 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 教師は手の内をさらすべきだと『学び合い』では主張します。私も、私の実践の場である西川研究室では手の内をさらしています。あまり読まれた方はないと思いますが、HPの方に公開しております。その中で目標を以下のように書いてあります。

 『本研究室の目標を「自分の心に響き、多くの人の心に響く教育研究を通して、自らを高め、教育を改善しよう」としました。

 おそらく皆さんの本当の希望は「自分の心に響き、自らを高め」であると思います(単に修了・卒業したいレベルの人は、西川研究室に所属しよう何て思いませんから)。実は私もそうです。しかし、そのレベルを超えた目標を、研究室の目標として掲げることは重要だと考えています。

 世の中には倫理学というのがあります。大学生の頃、それを読みあさった時があります。でも、カント、ヘーゲル、西田は全く分かりませんでした。相対的に分かりやすかったのは和辻です。でも、それでも分かりませんでした。それいらいずっとご無沙汰でしたが、「利己的なサル他人を思いやるサル」という本はどんな倫理学の本より面白く、ためになりました。それによれば、サルにおいても倫理的と思われる行動が見られます。そして、その行動が発生する理由は、その行動によって間接的に利益を得るからです。つまり、弱い仲間を助けたサルは、その群れの他のメンバーから「お返し」が来るんです。なぜ、そんな「お返し」をするかといえば、自分が弱い立場になった時の「保険」みたいなのものです。カント、ヘーゲル、西田のように、どっかに純粋無垢な「善」があるように書かれるのではなく、生々しく、かつ、凄く納得出来るものです。我々は、学び合う能力は本能の中にあると考えています。だから、ゴチャゴチャ言わなくても、自然に発生するものだと信じています。上記の知見は、教師がゴチャゴチャ言わなくても、自然に助け合いが起こるであろうと期待出来ることを証明するものだと思います。

 しかし限界があります。別な猿学者の「ケータイを持ったサル」という本によれば、サルが自身の群れと感じる範囲は極めて狭く、基本は親兄弟で、広がっても普段見知っている集団を越えることは無いそうです。そして、現代の「ひきこもり」や「傍若無人の若者」は、人間の本能の中に組み込まれた「群れ」の範囲がサル並だと考えると、至極当然に解釈出来るとしています。おそらく、これは若者に限らず、人間全般の本能の限界と考えるべきなのでしょう。例えば、年配のおばちゃんが、人の迷惑考えず大声を出しているのは、自分が話している以外の人を、「群れ以外」と分類し、人と認識していないからです。

 私はサルと同じように、自身の損得と、社会の損得自身を冷静に分析し、社会の損得に矛盾しない自分の損得を設定することは「得」だと思います。つまり、みんなを助けるという社会的要請に応えることが自分の得になっていることは、サルと同様に人間でも正しいと思います。ただし、人間の本能に組み込まれている「みんな(もしくは群れ・社会)は、サルと同様に親兄弟、もしくは見知った狭い集団レベルが限界なのだと思います。教師の例で言えば、せいぜい自分の学校の職員集団レベルで、それを越えた集団を群れと認識することは困難で、従って、郡市レベル、県レベル、日本レベルの集団に対する倫理的な行動をすることは困難なのだと思います。それを越えられるのは、本能ではなく、教育によらねばなりません。

 私の大学院の同級生に「教材レベル」の修士論文を書いた人がいます。修了した時に、「お前が作った教材をお前自身が使うの?」と聞きました。彼の返答は「使わない」とさばさばと答えました。つまり、彼にとっての、その教材は自分が修了するため「だけ」の意味しかありません。仮に、自分が使ったとしても、それだけでは、自分のため「だけ」の意味しかありません。ただし、これは教材レベルの研究に限りません。もし、自らが2年間かけてなしたものを自らが使わないならば・・。仮に、自分は使うとして、それを他の人に知ってもらえないならば・・・。私の知る限り、2年間の研究が終わったとたんに、「思い出」の中に死蔵される研究が多すぎるように思います。そして、そんな人は「損」だと思います。

 私には、自分のため、家族のため、そして自身の狭い群れである西川研究室のためという、相対的に狭い範囲の目標があります。しかし、同時に「専門職大学院のため」、「上越教育大学のため」、「学会のため」、「地元教育界のため」、「日本の教育界のため」等々の様々なレベルの目標があります。そして、それぞれに矛盾が生じないよう、相互に関連づけています。そのような多層的な目標を持つため、様々な人とリンクを持ち、かつ、その援助を得ることが出来ます。その結果、とても「得」をしています。

 一方、比較的狭い範囲の群れのための目標しか持たない人もいます。人それぞれですから、完全否定するわけではありませんが、「損な生き方だな~」と思います。そんな「自分」だけの視点でしか捉えられないならば、結局、周りの協力も限られたものです。色々な場で、短期的には要領よく立ち回っているため、長期的には損をして、そのことに気づいていない人を少なからず見てきました。要領よく「美味しい仕事」だけをかっさらって、「大変な仕事」をうま~く逃げる、そして口先だけは当たりがいい人っていますよね。そういう人って、本気でそれでOKだと思っているようです。でも、ちょっとの期間つきあえば、そのような人の「底」が見えます。そうなると、そういう人とのお付き合いは要領よく避けます。だって、そんな人とつきあうことは「損」ですから。

 以上の理由から、本研究室の目標を「自分の心に響き、多くの人の心に響く教育研究を通して、自らを高め、教育を改善しよう」としました。是非、皆さんの中で、この目標を基に、多層的な目標群を設定して欲しいと思います。』

 つまり、我々の研究室での「みんな」とは教育受ける人全て、つまり、全人類ということです。

追伸 もちろん、私が全人類をリアルに求め続けているか、と言われれば、すみませんと謝ります。でも、そうありたいと願っていることは本当です。そして、そういう人が増えて欲しいと願います。