■ [大事なこと]非滅私奉公
ある時です、大学の広報のためゼミ生が新潟市まで行くことになりました。私は、ゼミ生の労働に対して正当な対価を出すように担当者に求めました。ところが担当者からは「愛校精神は無いのか?」と言われ、えらく怒りました。私より立場的に高い位置の方でしたので、もの凄く怒鳴りながら怒りました。戦前の全体主義では、「国家のため」と求められます。それに対しては、ムカムカするほど嫌悪感を感じます。あるテレビのインタビューで「もし、国のために戦えと言われたら?」と若者が質問されました。その若者は「そんなことを求める国だったら滅びてしまえ」と応えました。私も同感です。
もちろん民主主義国家においても「国家のため」を求められることがあります。ケネディーの大統領就任演説においても「わが同胞のアメリカ人よ、あなたの国家があなたのために何をしてくれるかでは なく、あなたがあなたの国家のために何ができるかを問おうではないか。わが同胞の世界の市民よ、アメリカがあなたのために何をしてくれるかではなく、われ われと共に人類の自由のために何ができるかを問おうではないか。」と述べています。しかし、その言葉が述べられる前に、「われわれは自由が生きのび勝利をおさめるため」に何を成すべきかを述べています。具体的には、自国のみに視野をとどめず、他国にも手をさしのべるべきであると述べています。つまり、一人一人が自由に生きのびるためには、「国家のために何を出来るかを問おう」と述べています。ここが違うと思います。全体主義では、国家に奉仕することのみが目的です。そして、自身の利害を求めることは悪です。が、民主主義国家においては、個人の利害と国家の利害は基本的に無矛盾なはずです。もちろん個人の利害が国家の利害に矛盾する場合もありますが、もし、「その個人」の利害を他の個人に普遍化すれば「その個人」の利害に反することになります(例えば、殺人者に刑罰を科すのは殺人者の利害に反しますが、殺人がOKになってしまえば、その殺人者にとっても困ることになります)。
民主主義国家においては、個人の利害と国家の利害の関係を国民は学ばなければならないと思います。そして、教師はそれを理解し、子どもに語らなければなりません。学校における子どもにとって国家は抽象的かも知れません。具体的にはクラスメートであり、同じ学校のみんなが具体的です。それはまさに、『学び合い』だと思います。自分の利害のために、みんなが必要なのです。これを子どもに語るためには、おのれが何を成しているか、が大事だと思います。つまり、教師としてのおのれのために、何を成しているかです。以下のブログを読んで一気に書き上げました。おそらく、全体主義やグループになることを目的としているグループ学習においては「利己的」という言葉を使って自慢を書くことはあり得ないと思います。