■ [嬉しい]同僚
本日、久しぶりに職場で厳しい議論をしました。正直言って、私は納得していませんし、怒っています。しかし、そうであっても同僚に対する尊敬と「好きだ」という気持ちは微動だにも揺るぎません。こんな同僚ならば、何度でも厳しい議論を出来ます。
『学び合い』を提唱している私が改めて気づくのも馬鹿馬鹿しいですが、話し合いは自分の意見を通すことが目的ではなく、自分が思いもつかない素晴らしい考えを生み出すことが出来ます。そのために、ゴチャゴチャと議論するんですよね。それを感じられる同僚と仕事が出来ることが幸せです。
■ [大事なこと]人を安く使わない
ある方に、あることを質問されたのでメモります(あははは、何のことか分かりませんよね)
私は人を安く使いません。安く使えば、影でどんなことを言われるかを、自分の学生時代の経験で知っているからです。だから、人を使う場合は、ありとあらゆる知恵を使って金を引っ張ってきます。もちろん金という形ばかりではありません。金がない場合は、その他のところで補います。その経験から言えば、「誠意があれば形で表す」は正しいと思います。これって常識的にも正しいですよね。だって、誠意があれば、その人のために最善のことを成すために自分の頭と体を使っているはずですから、なんらかの形があるはずです。自分の頭と体を使っているのに、たいしたことはない、ということは常識的にはあり得ないことです。
論理学的には、ある命題の対偶(「AならばB」に対する「BでないならAでない」という命題。)は元の命題と同値です。即ち、元の命題が正しいならば、対偶は正しいのです。「誠意があれば形で表す」の対偶は「形で表さなければ誠意がない」なのです。この正しさを二十数年間で本当に実感します。私の経験上、「○○の理由から・・・・しか出来ないのですが、熱意はあります」は嘘です。この経験則に基づいて、見知らぬ人の仕事を受けるか、受けないかを決めます。
追伸 と書くと、「あ、このメモは自分のことを書いているのではないか・・・」と不安になられる方がいると思うので、追伸します。あはははは。現在、このメモをお読みなっている方の場合は、そのような方はおられないと思います。なお、「誠意がなければ形で表さない」、「形で表せば誠意がある」は「誠意があれば形で表す」とは論理的に同値ではありません。ただし、その仕事は、ちゃんと「お代」を頂いているのですから、芸人としての仕事であると「ありがたく」割り切れば良いだけのことですから。