■ [大事なこと]群馬の会
1月末の群馬の会で何を話そうか考えています。今回の会のキーワードは保護者参加です。そこで、保護者の方に分かってもらいたいことは何かな~っと思いました。私は「教師は学校での親代わりではなく、管理者である」ということを伝えたいと思いました。かわいい子どもを家庭から学校に送り出す保護者が、学校を課程の延長上にとらえ、教師に学校での親代わりになって欲しいと願うのは当然です。私も息子を幼稚園に送り出すとき、小学校に送り出すときは、不安で不安でしょうがありませんでした。しかし、教師は数十人の子どもの親にはなれません。しかし、保護者にとっては「我が子」しか視野にありませんから(私もです)、そういうことが分かりにくい。保護者にとって『学び合い』における教師の姿というのは、冷たい教師に見える危険性があります。これは他ならない教師自身もです。出来るわけはない、全ての子どもの親になろうと奮戦します。
『学び合い』では、くだらんレベルのことは教える必要はない、と主張します。しかし、教師は何もしていないわけではありません。ちゃんとしています。しかし、今までの教師のやっていたことと違うことをやります。それ故、今までの教師のイメージを持っている保護者や同僚からは、何もやっていないように見えます。
今年の西川ゼミのYちゃんは、『学び合い』に5月から取り組み始めた教師を1年間以上、継続的に記録・分析しています。凄いでしょ!さらに、数年前のゼミ生は、普通の教師と『学び合い』の教師との比較分析をしています。今度の群馬の会では、そのあたりの話をしようと思います。休み中は、それをやろうと思います。
皆々様のおいでをお待ちしております。
■ [大事なこと]捨てるもの
現状で『学び合い』に出会える、さらにトライするような人は、飛び抜けて有能だし、志の高い方だと思います。また、『学び合い』ということは知らなかったが、考え方が『学び合い』であった方も多いと思います。ただ、それが教科学習に使える、また、それがたまにやる面白い指導法なのではなく、教科学習を一貫するものであることを知らなかった、という人がだと思います。このような方が、『学び合い』をやれば、直ぐに腑に落ちるし、直ぐに成功します。しかし、そのような先生方は、それまでも研鑽を積まれた方々です。今まで努力して教材や発問を蓄積しました。その、今まで努力して教材や発問の蓄積を捨てるのが辛いのは当然です。捨てたくないので、今までの蓄積と『学び合い』を融合したがります。でも、残念ながら、それは失敗する危険性が高いです。というのは、今までの教材や発問は非『学び合い』の考えに基礎づけられています。それ故、それと『学び合い』は融合出来ません。しようとしたら、いつのまにか今までの授業に授業方法としての『学び合い』もどきをくっつけることになります。
ポイントは、今までの蓄積を自分で持ち続け、その選択を自らが行うか、子どもに与え、子どもに選択させるか、です。例えば、今までに創り上げられたすばらしい実践の成果の本は、子どもたちに公開し、選択させるならば『学び合い』となります。しかし、非『学び合い』の考えだと、それらを子どもたちに公開せず、教師が抱え込んだりします。また、教師が自分の考えでその中の方法を選択し、それを子どもに強いることをします。これは『学び合い』ではありません。このあたりの意識改革はとても大変です。
この是非は、指導法としての効率の是非(具体的には○○を覚えるには有効とか、○○を発展的に考えられる)というレベルで考えるのではなく、『学び合い』の考え方に照らして考えれば是非は明らかです。即ち、教師がそれを占有する状態と、子どもが判断できる状態とどちらが学校教育の目的に合っているでしょうか?教師がそれらの教材や発問を占有するのは何故か?それは子どもが出来ないと思っているからです。出来ないと教師が思っている限り、子どもは出来るわけはありません。
捨てるべきは教材や発問の蓄積ではありません、それらは教師のものという考え方です。そして、それが成り立つか否かは、子どもをどんな存在と考えるかです。まあ、有能な人は多いので、そのうち気付きますが。あはははは