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2009-01-07

[]革命 04:30 革命 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 革命 - 西川純のメモ 革命 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 下のメモを書いて就寝しました。が、夜中にあるアイディアが沸き、眠れなくなりました。とりあえずメモらないと眠れなくなるので、メモります。

 おそらく夢の中で、「大人には出来て子どもたちには出来ないと私は思いこんでいるのは何だろう?」と考えたんだと思います。だって、それが打ち破られたら、最高に素敵ですから。そうかんがえたら、ありました。それは、「教室の中では教師が絶対者で、教師が変わらない限り、子どもたちが『学び合い』を望んでも出来ない」と私は思っています。しかし、そうではないかもしれない、と気づいたので夜中に起き出したというわけです。 起きて、トイレに行ってベッドに戻るまでに頭の中で整理されました。それゆえ、もう眠れなくなってしまいました。私の妄想はこうです。

 もし、ある一定レベルまで『学び合い』を実践しているクラスが増えたとします。その中で、『学び合い』の理論的背景と実践データを子どもに伝えるのです。それを理解する子どもが一定レベルに達し、その子たちが政治をやりはじめたら。私にとっては楽しい夢ですが、別な立場の先生にとっては悪夢でしょう。だって、授業妨害する子どもは、ある意味、扱いやすいです。だって、それを押さえることは社会も容認し、クラスの過半数も容認するからです。ところが、成績も上位の3、4人が、クラスの大多数の支持の上に立って、理論的・実践的に教師を論破する戦略をとったらどうでしょうか?そして、その全てをクラスの外に対して情報発信するのです。つまり非暴力革命を起こすのです。

実はこの過程は学級崩壊の過程と同じです。学級崩壊はクラスの大多数が反抗する子どもたちを支持したときに起こる現象です。ここまで考えが至ると、私自身も恐ろしくなりました。でも、『学び合い』の子ども観から考えて、十分にありえるだろうなと思いました。

[]私は馬鹿です! 22:29 私は馬鹿です! - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 私は馬鹿です! - 西川純のメモ 私は馬鹿です! - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日は秋田にいます。明日の講演の前泊です。ということで、先ほどは秋田の先生方と飲みました。私としては以前から知っている2、3人の先生と飲むつもりで行きましたが、ビックリ。私の知らない同志と合うことが出来ました。楽しかった。で、しゃべりすぎました。特に、病み上がりで酒を飲んでいなかった胃袋のアルコールの吸収は急激です。それに美味しい秋田の酒なのですから、自分でも急激に酔っていることを感じます。これで2次会に行ったら大変ですので、よい子になって失礼しました。

 秋田は『学び合い』に関しては無風区だと思っていました。しかし、実は私の知らないところで、着実に土台が出来つつあることを知りビックリしました。嬉しかった。こんなことを知らない私は駄目だな~っと思いました。

 帰ってからブログを一通り読みました。その中でとんたんさんのブログ(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/tontan2/20090107)を読んで愕然としました。その中で、とんたんさんの昨年の教え子からの年賀状に「先生、僕はまだ中学校で学び合いが実現出来ていません。すみません。」とあったそうです。詳しくはブログを読んで下さい。

 これを読んだ瞬間、バーッと涙があふれました。もう、嗚咽です。いまでも、ウルウルしています。最初は、すみません、すみません。です。我々大人が、彼らにちゃんとした環境を整えられない、申し訳なさです。次は、ありがとう、ありがとう、という感謝の気持ちです。そして、今、これを書いている気持ちは、「私はなんて馬鹿だったんだろう!!!!」という「感謝」の気持ちです。

 同志の方だったらご存じの通り、我々のブログ群の中には中学生の同志がいます。私は「愚か」にも超超レアケースと暗黙のうちに見積もっていました。馬鹿だった!!!しかし、同志がちゃんと『学び合い』の意味を語るならば、それを教師のレベルで読み取れること私は分かっていと思いました。しかし、愚かにも受動的な『学び合い』理解者をイメージして、積極的な『学び合い』実践者を必ずしもイメージしていませんでした。確かに教師の方にも、自分の実践にクローズしている人もいますが、広げることの意味を理解している方もいます。『学び合い』の子ども観から言えば、それと同じぐらいの割合で、子どもの中にも広げる意味を理解している同志のクラスでは生まれているはずです。そんなことは子ども観から言えば、当然の帰結です。だか、それを私は愚かにも見ていなかった。これも私の中にある囚われです。

 心からの喜びとともに、私の愚かさを書きます。そして、『学び合い』の考え方の深みを知り、未来への可能性を感じます。大人もやらねば。

追伸 hayator-rikaさんへ。君ような若い同志が全国にいることを、今日、私は知りましたよ。

[]反省して追伸 16:50 反省して追伸 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 反省して追伸 - 西川純のメモ 反省して追伸 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 日々精進さんのブログ(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/tsmumu/20090206)を読み、Kさんのフォローを読んで、あわてて反省しつつ昨日の「出来る子」を補足します。言い訳ですが、一応、殆ど全ては手引き書や過去のメモの書いたのですが、あらゆる方面に配慮しつつ書き始めると、手引き書の完全版になり、それ以上となってしまいますので。と言い訳を最初にして、補足します。

 以前より書いているように、私の考える教師に職能は以下の三つです。網羅的、箇条書き的な普通の教師の職能とはかなり違い、静的ではなく、動的に職能をとらえています。

 1)子どもや親のせいにしない。確かに、それが原因なのかもしれないが、それを言ってはおしまい。

 2)尊敬すべき、先輩、後輩を捜し、その人といっぱい雑談をする。見いだす方法は、子ども「たち」に聞けばいい。

 3)まねられるところはまねる。まねられないところは、まねる必要はない。今の自分のままで、出来る授業はある。

 補足します。

 第一の職能がないと、教師の進歩は止まります。教師が求められる能力は多種多様です。例えば偏差値70以上の子どもたちを相手にするのと、暴走族だらけの子どもを相手にするのとでは、求められる対人能力も教材の力も全く違います。小学生を相手にするのと中学生を相手にするのでも違います。また、同じ学校、同じレベルの子どもを教えるのだって、自分が二十代前半であるときと、四十代後半では全く違います。学問的にそれを抽象化することは出来ますが、理論物理学者が車を作れないのと同じ理由で、現実の教室では無力です。結局、教師にとっての最高の教師は「子どもたち」だと思います。子どもたちに教えられながら、常に学び続けなければならないわけです。

 若い先生の場合、過去の自分の経験や、他人の経験を知りません。そのため自分を相対化できません。さらに、年を経ると、失敗しても、その失敗を目立たなくするノウハウは確実に増えます。その結果、職員室の中で、あたかも自分だけが駄目のように感じてしまいます。いえいえ、中堅・ベテランでも追い詰められると、自分だけが駄目みたいに感じます。

 でもね。今まででは通用しないのは、ごくごく当然です。子どもも変わり、自分も変わっているのですから、調整しなければならないのは当たり前です。これは、『学び合い』だって、一斉指導だって同じです。それが嫌になると、子どもや保護者のせいにしたくなる。人情です。でも、このブログを読んでいる方々だったら、そうした先生がどのような先生であるかは「よ~~~~く」ご存じなはずです。もがくしかありません。もがくのが当たり前です。偉そうなこと言っている私も「当然」、一杯失敗し、落ち込みます。でも、もがくから成長もあります。少なくとも、もがかなければ、現状維持はあり得ません。

 でもね。人の能力なんて、たががしれている。もがいても解決できないことが殆どです。そんななかでもがき続けるなんて、神仏でなければ出来るわけありません。当然です。では、子どもや保護者のせいにして合理化する教師になるか、成長しつつけることの出来る教師になれるか、その分かれ目は何かといえば、それが2番目の職能です。これって大事です。自分が分からないこと、困っていることを、解決する方法をこともなげに教えてくれる人っているんですよ。「あ、それね。あははは。知らない人は、なやむよね。それってね・・・・」と教えてくれる人っているもんですよ。答えを知っていなくても、一緒に考えてくれる人はいます。そして、何よりも愚痴を聞いてくれる人はいます。

 教えてもらえる、一緒に考えてくれる、そして愚痴を聞いてもらえる。そこで得られる最大のものは何か?そりゃ、もう一度、自分で考える勇気をもらえることなんです。教えてもらえることでさえ、結局、自分の場面にそのまま使えるものではありません。やっぱり、子どもたちという教師の教師の前で実践して、自分でもがくしかありません。これは『学び合い』も同じです。

 私も落ち込んだとき、いつまでも愚痴を聞いてくれた先輩教師が、十数人の職場でしたが片手以上いました。職員室の横のお茶飲み場では足りない時は、その愚痴を聞いてくれるために酒場や自宅で「奢って」もらえる機会が、週1回以上はありました。今から考えると、驚異的に恵まれていたと思います。でも、今の職場は年齢バランスの崩壊や、様々な要因で私のいた頃とはだいぶ様変わりしていると思います。その場合は、あらゆるチャンネルで繋がることが大事です。(でも、本当は『学び合い』が広がれば、職場が第一の場になると思いますが)

 さて、自分が悩み、人と相談し、再度自分で考えるとき重要なのが第三の職能です。溺れている人は浮いているものに必死にしがみつきます。でも、本当に重要なのは自分で泳ぐことです。あくまでも主体は自分であることを忘れてはいけないと思います。

 現状で『学び合い』を実践している人、実践しようとしている人は、第一の職能は100%あります。でも、第二の職能を得られる環境におられるとは限りません。そうなると辛くなる。Kさんのご指摘はそのあたりにあると思います。だから、第二の職能、第三の職能を発揮しましょう。少なくとも、このブログ群の人たちは、人の愚痴をちゃんと聞いてくれる人たちだと思います!

追伸 2年間も大学院で私の圧力をかけまくられ、その後も圧力を受けているKさんの腹の中は「あ~あ、N先生の書いていること100%自分に向けている人がいる・・・。心配だ!N先生の言っていることは、そんなにまともに受け取っていたら死んでしまうよ。まったく、N先生は相変わらずだからな~」と思っているでしょうね。あはははは。それが第三の職能ですから。(あ、Kさん、レスしなくて良いからね。あははは)