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2009-01-15

[]最善の方法 14:49 最善の方法 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 最善の方法 - 西川純のメモ 最善の方法 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 職業柄、素晴らしい授業方法と主張するものを読んだり、聞いたりする。それを読むたびに「でも、それって万人に、そして、あらゆる状況にフィットするの?」と疑問に思います。世の教育本の殆どは、その教科が大好きな先生が、その教科が大好きな先生に向けて書いた本です。そのため、「その教科が大嫌いな子どもにはフィットしないな~」と思いながら読みます。

 ビジネス書はそれよりもましです。というのは、教育の世界のように「うまくいったつもり」は出来ないのです。例えば、「子どもの目がきらきらしていました」とか、いくつかの作文の事例紹介で証明したつもりになっている場合は少なくありません。そうなると、子どもの「分かったふり」、「楽しいふり」の名演技にコロリとだまされます。しかし、ビジネスの世界は、そんな甘い評価はあり得ません。従って、事例紹介があっても、「確かに大事だな~」と納得する事例です。が、注意深く読むと、記載された説得力のある成功原因も、他の事例の成功原因と矛盾しています。ひどいときには、一つの本の中で紹介している事例同志が矛盾している場合もあります。何故でしょう?

 もちろん、個々の事例分析に誤りなく、事実そうなのだと思います。しかし、個々の事例には、様々な背景や文脈があり、それとの関係で有効に働いたり、働かなくなってしまいます。結局、その場、その時に合わせてもがき続け、偶然とそれに導かれる必然を積み上げながら成功に結びつけなければなりません。まあ、今の言葉で言えば、複雑系のポリエージェントシステム理論の誘導される偶発で表現されるでしょう。

 しかし、一生懸命にもがいているうちに解決するでは、まあ、禅問答ですね。「がんばれ!」と言っている以上の意味はありません。そこで、『学び合い』では、ホモサピエンスのありようにそのシステムの基礎を置いています。様々な科学的根拠によって蓋然性は高いと思いますが、まあ、仮説と言って良いでしょう。

 第一の仮説は、ホモサピエンスにとって最大のツールであり戦略であるのは他の人であるということです。人が石を道具と使い、コンピュータを道具と使っている現在までで、最古にして最高のツールは他の人であり、それを使って生き残るという戦略を立てていました。それをDNAの中に組み込み、洗練させていたのです。『学び合い』が予定調和的にうまくいきすぎるのは当然です。人類の数百万年の生存競争の歴史の中で洗練しつづけた結果なのですからうまくいくのは当然です。これが、『学び合い』の子ども観に対応します。つまり「子ども「たち」は有能」なのです。なぜなら、ツールを使っている集団が、それを使わないよりは有能なのは理の当然です。

 第二の仮説は、「第一」の特徴をホモサピエンスは持っているものの、完全ではなく不完全であるということです。具体的には、ツールとして使える人はごく少数で、また、同質の人を望む傾向があるということです。人類の数百万年の圧倒的大部分の歴史では、身近な肉親、そしてそれが少数集まった小さな群れで生活するレベルで生活して、それで生き残ってきました。しかし、今から数千年レベル前から状況が変わってきました。おそらく、農業と関わっていると思いますが、大きな組織で生きるホモサピエンスが生まれるようになりました。数千年のレベルでは、DNAには組み込まれません。ましてや、世界中の圧倒的大多数の人は、未だに、小さい集団で生きているのです。そのため、異質で多数の相手をツールと使うということは教育によらねばなりません。これが『学び合い』の学校観に対応します。つまり、学校教育の目的は、多様で異質な人と折り合いをつけて自らの課題を解決することを学ぶためにあるのです。

 この戦略は、状況によらず、教育においてもビジネスにおいても、もっとも普遍的な原理原則になりえると私は信じています。たった一つの最善の方法はありません。しかし、たった一つの『学び合い』の考え方によって、その場、その時の最善の方法が導かれます。そう見てみると、一見ばらばらなビジネス書に一貫したストーリーが見え始めます。そして、素人的には正しそうだけど、実際にはそうではない事例も浮き上がります。

追伸 教育の場合は、残念ながら、素人的には正しそうだけど、実際にはそうではない事例ばかりが浮き上がります。理由は、先に述べたように、圧倒的なものは、その教科が大好きな先生が、その教科が大好きな先生に向けた主張だからです。そして、日本の圧倒的大多数は、その先生方ほど、その教科は大好きではなく、その大多数の人を教えるのが教師の仕事だからです。

[]校長の決意 14:49 校長の決意 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 校長の決意 - 西川純のメモ 校長の決意 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日、地元の学校で『学び合い』の異学年を参観しました。いつもながら、目をウルウルしながら、感動的な場面がごくごく普通に生起し続けていることを楽しんでいました。それが無料でみられるのですから、お得です。

 しかし、本日の最大の収穫は、授業後に校長先生と二人で話した中にありました。話では、子どもの変容はもちろんですが、先生方の変容に満面の笑顔で私に語り続けてくれました。私が好きな人が幸せになるのは大好きですから、私もニコニコです。そして、一段落した後、校長先生が真顔で以下のように語りました。

 「私自身もそうでしたが、本校での『学び合い』は人間関係づくりに重きを置いていたようです。しかし、先生(つまり私)のおっしゃるように成果を伴わない人間関係づくりはありえません。これからは成績でもはっきりとした成果をもとめなければならないと判断しました。」とおっしゃったのです。

 私は「待っていました!」と思いました。人間関係づくりに重きを置くと、初期段階はクリアーできるのですが、「みんな」を徹底する充実段階には進みづらいのです。もちろん自然とそれが出来る先生はいますが、学校レベルで全ての先生が、全てのクラスでそれを実現するのは無理です。なぜなら、実際には数人の同級生を切り捨てているのに、人間関係が出来た「ふり」はいくらでも出来るからです。しかし、成績の「ふり」は出来ません。そして、どんな先生も成績ははっきりと分かります。そして、成績によって人間関係のぬけがあることがはっきりと分かってしまうことは、子どもたちにもはっきり分かります。子どもにとっても、そして教師にとっても厳しい課題です。

 しかし、おそらく校長は、その学校の子どもそして先生方は、それを乗り越えられると確信したのでしょう。そして、管理職がそれを確信し、願えば実現するのが『学び合い』です。「また、この学校は大化けするな」とニヤニヤしながら大学に戻ってきました。