■ [大事な子]多様な子どもを受け入れる
私のゼミ生のOBのある方に、普通学級ではなく特別支援学級に行った方が良いと思われる子はどんな子かを聞きました。その中に、以下がありました。
『あらゆる関りをしても、クラスのマスコットとなりそこにいるだけとなってしまう。(感覚的なものです。みんなの勉強についてこれなくてもいい。しかし、教師としてその子の集中する姿や話を聞く姿をクラスの子にがんばっていると説明できないと苦しい。)』
これは我がことのように分かります。私の実践の場は西川研究室(西川チーム)です。私のゼミは、驚異的な室の高さの論文を驚異的にコンスタントに出し続けている集団です。ある研究者は「軍団」と表現することさえあります。当然、遊びたい学生さんからは敬遠されます。さらに、ゼミ生もおもしろがって、「怖いぞ~」、「恐ろいぞ~」と過剰に脅かします。本当は脅してやらせる集団ではなく、自然とやるようになる集団(つまり『学び合い』の集団)なのですが、ゼミ生の過剰宣伝の結果、誤解されがちです。しかし、少なくとも遊びたい学生さんはまず来ません。いや、能力の高い、志の高い学生さんに恵まれています。
が、どんなことにも例外があります。本人は「やろう!」と決意したのですが、その決意が続かない人もいます。本人は自分には高い能力があると考えていますが、それ程ではない人もいます。そうなると、我がゼミだと目立つのです。
長期的に見れば、本人のやる気は低くても、やる気のある集団の中にいれば伝染します。また、本人の能力よりも、他人の能力をどう活用するかが大事だと分かれば、かなりの能力を発揮します。が、先に述べたように初期段階では非常に目立ってしまいます。さらに言えば、障害者レベルの人となれば、最後まで駄目だということもありえます。そうなると、同志のごとく疲れてしまいます。少なくとも、その同志の人が我がゼミにいた頃の私は、同志と同じに悩みます。最終的には、他のゼミに異動することを勧めたり、そのような人が来ないように「怖いぞ~」、「恐ろいぞ~」と過剰に脅かすこともしました。しかし、今はそうしません。
上記の同志、そして、かっての私が間違っていたのは「クラスの子にがんばっていると説明できないと苦しい」という部分なんです。つまり、その子のことを説明し説得するのは教師の役目であると考えたことが問題なんです。本当は、その子のことに気にかけるのではなく、集団が健全であるか否かに気にかけるべきでした。「その子が出来る、出来ない」は教師の気にすることではありません。その子に関して言えば、集団がその子を切る集団になっているか、それとも折り合いをつけて細くでも、その子とつながり続ける集団になっているかを教師は気にかけるべきです。そのような集団であれば、少なくとも教師がどんなにやっても達成できないレベルを、その子に「も」実現できると今は信じています。