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2009-01-23

[]正しいとは 12:37 正しいとは - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 正しいとは - 西川純のメモ 正しいとは - 西川純のメモ のブックマークコメント

 あることが正しいとか、確からしいとはどういう事でしょうか?既に見ていただいたように、それは実験・観察で直ちに検証することは出来ないのです。しかし、多くの理科人は、実験・観察で検証できると考えています。なぜなら、そう教えられからです。我々は科学というもの実験・観察に基づいて形成されていると教えられてきました。それは一面で正しく、一面で誤りです。誤っている点は、第一に理論重要性を強調されていないことです。第二は、絶対に正しいことだと教えられている点です。それぞれを説明したいと思います。

 漫画的に科学発見の姿を記述すると以下のようになります。自然現象に対して純粋な興味を持っている科学者が、何の偏見も持たずに、こつこつとデータを集め、それを分析します。そして、それを何年も積み上げていくうちに、「あ!!!そうか」と気づきます。有名なのはアルキメデス浮力法則を入浴中に発見したとき、素っ裸で「ユーレカ!(解ったぞ!)」と叫びながら町を走ったというのが典型です。

 しかし、偉人伝的には面白いですが、殆どの場合そのようなことはありません。本人がどれほど自覚しているか否かは別にして、「絶対にこうなるべきだ」という前提、つまり、偏見があります。これは当然です。考えてみてください。ある化学物質を合成する化学者が全く偏見を持たずに、実験室にある全ての薬品を手当たり次第に混ぜるということがあるでしょうか?あり得ません。「これこれになるはずだ」という仮説があり、それに基づいて実験計画を立てるはずです。仮説と偏見は紙一重です。その仮説が後の科学で正しいと認められたときには「仮説」と言われますが、後の科学で正しくないと否定された場合、それは「偏見」と言われるだけのことです。例えばです。ケプラーはティコ・ブラーエのデータを私心無く分析した結果をケプラーの法則発見した、というのが漫画的な記載の仕方です。しかし、事実は違います。ティコ・ブラーエのデータと、ケプラーデータ現在もちゃんと保存されているので両者を比べると、違いがあることが解ります。ケプラー法則に合わないティコ・ブラーエのデータは「誤差」だと無視しているのです。ヨーロッパにはピタゴラス学派という科学者宗教秘密結社がありました。そこでは、円というのは「神の創りたもうた完全な形である」という教義があります。ピタゴラス学派の影響を受けたケプラーは、天体の動きは円以外にないと信じ切っており、それを証明したいと願っていました。そのために、ティコ・ブラーエのデータを選択的に無視したのです。さて、このケプラーの行為は偏見といえないでしょうか?

 観察の理論負荷性という考えがあります 。つまり、理論が先行しない観察はないという考え方です。別な言い方で、観察によって理論を崩すのは非常に難しいのです。これは大科学者であっても、小学校4年生であってもです。ところが、観察の理論負荷性を理解していない人は、実験・観察をすれば変わるはずだと思ってしまいます。

 実験・観察で理論の正しさが検証できないとしたら、何によって自然科学において正しい、正しくないかを検証しているのでしょうか?これを理解するには、自然科学における正しさと数学の正しさの違いを理解しなければなりません。数学の正しいは本当に正しい のですが、自然科学の正しさというのは「もっともらしい(かっこよく言えば蓋然性が高い)」ことを意味します。

 漫画的には、ある事実が明らかになったことによって、相矛盾する理論のどちらが正しいかが明らかになります。しかし、物事はそう単純ではありません。本当は、どんな事実屁理屈・小理屈 をつければ、つじつまがあります 。それがために、天動説もフロギストン(燃素)説も、長い間命脈を保っていたのです。しかし、全く違ったアプローチからの様々な実験結果をつきあわせてみると、天動説プロストン説の説明は辛くなります。不可能ではないのですが、ものすごく無理をした説明になってしまうのです。例えば、「これこれの場合はこうで、これこれの場合はこうで」のように条件によって分けることをします。それが積み重なって、ものすごく複雑な説明をしなければならなくなってしまいます。そのうちに、「そんな複雑なの・・・」と感じる人が多くなり、そのことを信じる人が少なくなります。これが自然科学の検証の実際の姿です。その中には、主張する人の社会的ステータスという、科学とは直接関係のない人間的な要素が多く関わるという泥臭さがあります。つまり、非常にゴチャゴチャしながら決めます。そして、最後まで絶対というわけではないのです。例えば、天動説もフロギストン説も今度、復活する可能性は0ではありません。

 ところが、このことを専門外の人に説明するのは非常に難儀です。例えば、「こうなって、でも、こういうものがあって、でも、それに対して・・・・、でも、本当のところははっきりしないんだ」と説明したら聞く人が疲れます。そして、「何が何だか解らない」と思うでしょう。それ故、「こうなって、だから、こうなんだ」という単純な説明を後の人には説明するのです。しかし、それは方便であり、直裁に言えば、嘘なんです。ところが方便で教育されているため、最先端科学研究をしていない科学者、つまり、誰かの枠組みの中で仕事をしている科学者ですら、あたかも予定調和的な科学発見を信じることになります。そして、教師も同じです。

 つまり、教科書で描いているような、一つの実験・観察からある理論が検証されるというののは、非科学的とも言えます。では、どうやって子どもたちの誤解を解消し、納得させればいいでしょうか?

[]納得する 12:37 納得する - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 納得する - 西川純のメモ 納得する - 西川純のメモ のブックマークコメント

 科学概念が変容するにはどのような条件が必要かを示すモデルにポズナーのモデルがあります 。それによれば概念変容するためには、以下の4つ条件が成り立つことが必要です。

・先行概念への不満が生じなければならない。

・理解可能な新しい考えが、利用可能なものでなければならない。

・新しい考え方は、もっともらしくなければならない。

・新しい考え方は、先行概念より生産的でなくてはならない。

 つまり、正しいから正しいんだというような単純なものではなく、その人がどのように評価するかが大事であるかを示しています。ただし、ここで問題なのは「不満」、「利用可能」、「もっともらしい」、「生産的」というのは一律に決まらないことです。例えば、年収1千万円の生活を貧しいと不満を持つ人もいれば、リッチだと思う人もいます。年収200万円の生活を貧しいと不満を持つ人もいれば、リッチだと思う人もいます。そして、どちらが誤りで、どちらが正しいわけではありません。このようなことを説得し、納得させるためには何が必要でしょうか?

 私の研究室環境教育の調査を行いました 。方法を簡略して説明すると、中学生に「分別ゴミをすべきか?」と調査します。しばらくして「分別ゴミをしているか?」します。そして、実際に分別ゴミをしているためには何が必要かを調べました。その結果、「すべきかすべきでないか」の判断は、それに関する知識が関係するが、実際に行動するかには知識は影響しないという結果が出ました。そこで、実際に分別ゴミをしている人にインタビュー調査を行いました 。その結果、分別ゴミをしている人は、周りの人がやっているからやり始めたと答える人が多いのです。インタビュー調査と同時に、学生さんアンケート調査を行いました。内容は、「あなたは分別ゴミをしているか?」と、「分別ゴミをしている学生は何パーセントぐらいか?」ということを聞きました。その結果、分別ゴミをしている学生さんは、多くの学生さんは分別ゴミをしていると答えていました。一方、分別ゴミをしていない学生さんは、多くの学生さんは分別ゴミをしていないと答えました。いずれにせよ、自分マジョリティの一人であると認識しているのです。つまり、他者と同じ行動をするというのがきっかけであることを示しています。さて、先のインタビューでは、「なぜ、分別ゴミを今もやり続けているのか?」と聞きました。そうすると、多くの人が「熱く」環境問題を語り出したのです。この過程は、私にはわかりやすいものです。

私は27才まで東京文化圏で生活していました。東京では、横断歩道歩行者信号が「赤」であっても、左右に車が来ていなければ横断して良いという文化です 。ところが27歳の時、縁あって新潟県上越市に移り住むことになりました。休日、町を歩くとビックリしました。望遠鏡で見ても車が来ないのにもかかわらず、歩行者はみんな待っているのです。私は心の中で「馬鹿馬鹿しい、時間無駄じゃん。だから田舎は嫌なんだよな~」と罵りました。が、みんなが待っている中で渡ることは出来ず、じっとまっているしかありません。時間がたつと、横断歩道で待つことが苦にならなくなっています。さらに時間がたつと、たまに待てない高校生を見ると、「人の道に外れる奴」と怒りがわくようになります。

母親の近くで遊びに夢中になっている1歳児を、大きな音を立てるなど新奇な状態にさらすどうなると思いますか?ビックリして泣くと思うのではないでしょうか?しかし、実際は違います。ビックリした子どもは、まず母親の顔を見ます。そして、母親の顔が安心していると遊びに戻る。しかし、母親の顔の中に恐怖・動揺が見られると、遊びを中止し母親の元に近づき”だっこ”を求めるのです 。つまり、大人のやっていることは、母親の代わりに周りの人を判断基準にしているだけで、基本的には同じです。我々は理屈で納得するわけではありません。良い悪いを、六法全書を紐解いて決めるわけではありません。我々は周りの人の様子を見て、それをまねをします。そして、そのうちにそれが内在化するのです。これは子どもも大人も同じです。

上記は、一見、非合理なもののように思えるかも知れませんが、私にはホモサピエンスの英知が潜んでいると思います。多くの生物は極めて狭い環境の中でしか活きられません。例えば、蝶の幼虫の中には、たった1種類の植物の葉しか食べられない種類は少なくありません。しかし、その環境適応すれば生きていけます。そうであるならば、その情報DNAの中に取り込めば安定して次世代に伝えることが出来ます。ところがホモサピエンスはありとあらゆる環境適応しています。それぞれの環境の中に活きられる情報DNAの取り込もうとすればパンクしますし、矛盾が生じるでしょう。さらに言えば、ホモサピエンスは生まれた後の環境の変化にも対応しています。これはDNAには取り込めません。この問題を乗り越えるためにホモサピエンスは、「その環境で生き残っている同種の行動によって判断し、学べ」という極めてシンプル情報を次世代に残したのだと思います。実に、素晴らしい情報です。

ホモサピエンスが以上のような生物であると考えるならば、教育も変わるべきです。理科普通にやっているように、理屈でグイグイとねじ伏せる方法では限界があります。「まあ、そうなんだろうな~」とは思う段階までは進むかも知れませんが、実際に納得し行動するレベルには行かないと思います。それを乗り越えて、納得し行動するレベルに進むには、「みんながそうやっている」という認識を与え、そのように思っている集団の中で生活させる必要があると思います。例えば、川の水質汚染をこれこれの方法で正確に測定できるという学習では不十分で、むしろ、みんなが水質汚染を測定することが大事だと思っていると「思わせる」ことが大事です。

このようなことを大学の授業で話したとき、現職派遣先生から「先生お話は分かりますが、理科で教えるとしたら理科の特徴である科学的知識を大事にしなければならないのでは?」と質問されました。理科教師としては、しごく当然のご質問だと思います。それに対して私は以下のように応えました。

 『まず、理科があるのではなく、学校教育があり、その下に理科があるとおもいます。それでは学校教育において大事なのは、常識規範を与えることと科学的知識を与えることのどちらでしょうか?原子炉事故隠しをやった人は理学博士学位を持っている人も少なくなかったと思います。常識が無くて、科学的知識がある人と、科学的知識がなくて、常識がある人、どちらを育てたいですか?』

 そして、続けて以下のように語りました。

 『科学的知識をいくら与えても環境を大事にする学習者集団は育てられませんが、環境を大事にする学習者集団が育てられれば、それに必要な科学的知識を彼らは学びますよ。』

 ポイントは人なのです。

もし、振り子の周期がおもりの重さによって周期が変わると思っている子がいたとします。おそらく、本当のところは納得しているか納得していないかは別として、振り子の周期がおもりの重さによって周期が変わらないという立場の子どもはかなりいます 。そして、その子たちが、理科の得意な子であるということはみんな知っています。その子たちに、「おもりの重さによって周期が変わらないことを、みんなが納得できる説明を考えよう」という課題を与え、関わる機会を与えれば解決します。少なくとも、実験で納得させるよりは良い結果は得られるはずです。