お問い合わせ  お問い合わせがありましたら、内容を明記し電子メールにてお問い合わせ下さい。メールアドレスは、junとiamjun.comを「@」で繋げて下さい(スパムメール対策です)。もし、送れない場合はhttp://bit.ly/sAj4IIを参照下さい。             

2009-01-27

[]口述試験 17:21 口述試験 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 口述試験 - 西川純のメモ 口述試験 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日はゼミ生の口述試験がありました。修士論文の内容をコンパクトにまとめて発表し、審査委員から質問を受けます。実に良い内容でした。誇らしかった。

追伸 ちなみに教職大学院では、上記はないので、今回が最後です。

[]あわてて補足 12:38 あわてて補足 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - あわてて補足 - 西川純のメモ あわてて補足 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 下のメモの補足をします。

 よく「まず一斉指導が出来るようになってから『学び合い』をすべきだ」という話があります。一部は正しいのですが、そういっている人の理由付けが私とは違います。たいてい、そのようなことを言う方は、一斉指導の土台の上に『学び合い』が出来るのだと考えています。いかにも『学び合い』をテクニック的に捉えている考え方だと思います。

 では、若い先生が必要な最低限の能力って何でしょうか?逆に経験した人の持っている最低限の能力って何でしょうか?実は、たいそうな能力とは私は思っていません。ごくごく一般的な人として持つべき能力の範囲内だと思います。つまり、周りの人と喧嘩しない、周りの人に教えてもらうなど。また、子どもに対しても、部活で経験できるようなこと、いや、クラスで経験できるようなものが基本です。そりゃ、若い人が最初に教壇に立てば、とまどいもあれば失敗もあるでしょう。でも、それは一斉指導の場合だってあります。私の初年(それも1学期)なんて悲惨なものでした。まあ、一つ注意すべきは、自分は『学び合い』を理解しておらず、つまり実践もしていないのにもかかわらず、『学び合い』は正しいのだから私は正しいと意固地になるとしたら、こりゃ問題です。でも、それって『学び合い』の問題と言うより、その人の問題のように私は思います。そういう人だったら、一斉指導だって困難を感じます。

 では、何故、私は『学び合い』とともに一斉指導をすべきと考えているかと言えば、そりゃ、周りの人の多くが一斉指導をやっているからです。新規採用者は貯金0で授業をしなければなりません。当然、先輩教師の貯金を頂いて初年度を乗り越えなければなりません。ところが先輩教師が持っているのが一斉指導のドル紙幣であれば、『学び合い』の授業ではあまり使えません。ところが一斉指導をしているならば、先輩のドル紙幣を使えるのです。

 もう一つは、抵抗が少ないからです。周りと同じことをしているならば、説明もいりませんし、政治も必要ありません。失敗したって、「私もそういうことあったわ」と理解されやすい。でも、違うことすれば説明も必要ですし、政治も必要です。しかし、これは初年の人には分かりづらい。何年も生活しているうちに、先輩教師がどう振る舞うかで学ぶことが多いからです。おそらく、『学び合い』が広がってきたとしたら、「まず『学び合い』が出来るようになってから一斉指導をすべきだ」となるはずです。

 以上を分かっているにもかかわらず、私は若い人に『学び合い』を伝えたいと思います。それは、どのようにして採用後の3年間の乗り越えたかで、その人の教員人生の基本形が出来上がると考えているからです。若い人にしたたかに生き抜いて欲しい。

 おじさんは、君ら、君らの後輩の苦労が少なくなるよう頑張っています。

[]一斉指導的 09:08 一斉指導的 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 一斉指導的 - 西川純のメモ 一斉指導的 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は多くの先生方にはラディカルな授業を提案しています。一方、一斉指導的『学び合い』もあることは昨日のメモにも書きました。そして、そこでも書いたように、基本の考え方が分かっていれば、両者の違いは本質的ではありません。でも、多くの先生方にはラディカルと思われる授業を提案しています。いろいろ理由があります。その最大の理由は、ラディカルな授業の方が簡単だからです。

 え!?とお思いの方も多いですよね。最初の言い訳をしますが、考え方を変えるのは難しいと思います。しかし、それを乗り越えたならば、ラディカルな『学び合い』の方が簡単なんです。理由はあります。一斉指導は教師一人で引っ張らなくてはなりません。一定以上の話術や、授業研究が必要です。私は仕事柄多くの先生方の授業を見ますが、クラスの6割以上(9割といっているのではありませんよ)の子どもを引っ張るだけの話術や、多くの子どもに新たな見方を与えることの出来るレベルの教材の力のある先生は、日本の教師の中でそれほど多くはないと思います。これは、日本の教師の力をバカにしている分けではありません。無理だと思います。だって、6割の人を引っ張り、多く人に新たな見方を与える、これって、一流のダレントに求められる能力です。考えてください。日本人の6割以上に積極的に支持されているタレントって日本中に何人いると思いますか?そして、そのうち、来年までその命脈を繋いでいるタレントが何人いると思いますか。そのようなタレントの人を思い起こしてください。100%の人は、自分の話術で生きていないはずです。若いときはいざ知らず、今は、人の力で生きているはずです。その人たちは、年間に億単位の収入を得ています。日本にいる100万人以上の教師が、そのレベルの能力があるでしょうか?あるわけありません。それが普通です。でも、本当に一斉指導で授業を成り立たせるためには、それに準じた力量が必要となるんです。

 一斉指導では自分の授業のアラが見えづらい。特に、反抗できないような関係を築けば全く分からないようにすることが出来ます。しかし、本当は、一斉指導は非常に難しいものなんです。だから、生き続けるタレントは、人の力を使う側にシフトします。もちろん、日本には優れた教師は少なくない。そして、現在、『学び合い』を実践している人の多くは志も高く、力量もある人です。でも、その人が出来るからと言って、他の人も出来るかと言えば、否です。

 もちろん、考え方を変えるのは大変です。しかし、これの方は集団が出来ればごく簡単に実現することが出来ます。だって、日本人の多くは犬の肉を食べません。食べることを考えると嫌悪を感じるはずです。でも、中国では立派な食材なんです。犬の肉に対する嗜好を定めるに、それほど苦労はありません。犬の肉を食べない、嫌悪を感じる集団の中にいれば良いだけのことです。しかし、6割以上の子どもを引っ張るだけの話術や、多くの子どもに新たな見方を与えることの出来る人たちの中にいれば、自ずとその能力を得られるかと言えば、まあ、無理です。だって、それが成り立つのならば、芸能界という社会があるのですから、その才能を持つ人があふれるほどいるはずです。でも、そうではありません。我々は人の才能を自らに取り込むことは必ずしも出来ません。出来るのは、人の才能を利用できることが出来るのです。

 6割以上の子どもを引っ張るだけの話術や、多くの子どもに新たな見方を与えることの出来る優れた教師にとっては、一斉指導的『学び合い』の方が楽です。そうすると、他の人も楽だと考えがちです。しかし、優れた教師が一斉指導的『学び合い』で達するレベルに多くの教師が行くのはまあ無理です。もちろん、それを方便として利用することのメリットは理解できます。でも、へたくそな一斉指導と併用した『学び合い』もどきになるデメリットも非常に多いと思います。それでいいとなれば、そりゃ一斉指導的『学び合い』の方が圧倒的に簡単です。

 良い一斉指導をなりたたせるのは、本当はとてつもなく大変なんです!