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2009-01-28

[]神と悪魔 16:45 神と悪魔 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 神と悪魔 - 西川純のメモ 神と悪魔 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ふと、神と悪魔はつるんでいるのではないか?と思い始めました。多くの宗教には、神に真反対の存在があり、歴史は両者の絶え間ない闘争のように語られます。でも、神は絶対的な存在で、我々を超越しているならば、我々がそれを理解するなんて不遜とも思えます。そうなれば、神としては分かりやすくするために、色々な立場の見方を経験させ、その葛藤の中で本当に伝えたいことを実現するのではないかな~っと思います。

 何でそう思ったのかというと、『学び合い』に関して私と違うことを言う人がいると、その人は私と仲が悪いのではないか?と考える方がおられます。でも、まずそんなことはありません。というのは、本当に仲が悪い場合、それを察せられるような行動をしないのが大人のルールです。もし、それを超えて本当に仲が悪く、そして、それが公的にあらわになる状態というのは、本当に闘争になります。そして、それがどちらかが潰れるまで続けます。

 大人の世界って、そうじゃありません?だから、私は意見の相違をあえてだすとしたら、そりゃ、その人を信頼しきっているからですよ。信頼しきっていなければ、意見の相違を議論することを避けます。

 本日、ある方から「先生と仲が悪いと思われたかも知れません」と言われたので、二人とも大笑いしました。達成したい目的が同じならば、「方法」に多様性がある方が良いに決まっています。

[]話しましょう 10:47 話しましょう - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 話しましょう - 西川純のメモ 話しましょう - 西川純のメモ のブックマークコメント

 週末から、かなり出張が立て込んでいます。メルマガでご案内しているように、お誘いします。

 まず、今週末は群馬の会が高崎があります。キーワードは保護者です。楽しみにしています。

 2月3日は、新山口で飲みます。西川という生物を見たい人は連絡ください。

 2月4日は、大分県別府南小学校で研究発表会があります。おそらく、西日本で最初に開催される、学校としての『学び合い』の会です。ご参集ください。この仕掛け人が、坂本龍馬のような超大物です。

 2月5日は佐賀にいます。飲みたい人、どうぞ。

 2月6日は高知にいます。飲みたい人、どうぞ。

 2月7日は高知大学附属小学校の理科部に呼ばれています。話す時間を頂きました。

 2月13日は大阪に泊まります。14日に博士課程の口述試験があるための前泊です。異学年の実践で本にも紹介したK閣下、また、『学び合い』で教科書づくりをされたKanさんが現在博士課程にいます。その3人で飲みます。両方とも中学校の先生ですが、Kanさんは某国立大の附属小学校に勤務された方です。わたしなんぞと話すよりためになると思いますよ。

 2月14日は兵庫の西脇にいます。

 2月15日は博士課程の試験で兵庫教育大学におり、終わり次第、東京に移動します。到着は深夜だと思います。

 2月16日は埼玉県本庄の学校に参ります。そのことは以下のメモに書きます。

 以上、色々とお誘いいたします。

[]超光栄なお申し出 10:47 超光栄なお申し出 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 超光栄なお申し出 - 西川純のメモ 超光栄なお申し出 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 2月16日は埼玉県本庄の学校に行きます。理由は、生涯で初めての光栄なお申し出によるものです。

 そこには、『学び合い』の同志がいます。クラス最低点が100点という驚異的な結果を連続して出した同志です。つまり、誰一人としてミスがないということです。クラス最低点90点というのは十分に可能ですが、最低点100点というのは驚異的です。ここまでいくと、燃えるクラブのノリがないと不可能です。

 その同志の子どもたちが、自分たちのやっている『学び合い』を最初に言い出した先生の顔を見たいと希望されたそうです。そこで、出張の関係で途中下車できる日時を指定して、その日なればと日時を設定し、ご了解いただきました。

 商品モニターでもっとも辛辣なことを言うのは子どもです。子どもは正直に言いますから。日本全国の人に、おおいに自慢します。日本中にあまたいる教育研究者の中で、「自分たちの今やっている学習の提唱者に会いたい」と言われる人が何人いるでしょう!研究者冥利に尽きます!

[]自戒 09:06 自戒 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 自戒 - 西川純のメモ 自戒 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 同志のブログ(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/makine45/20090126)に「『学び合い』の恐ろしいところは、教師の気のゆるみがすぐに子どもに表れるところです。」というのがありました。グサリと刺さります。

 偉そうに色々なことを書きますが、私も悩める教師の一人です。いっぱい、いっぱい、失敗します。失敗の原因は、「課題がまずかった」のレベルではなく、気のゆるみが一番です。そして、気のゆるみがおこって失敗した、その現場に、その同志もいたことがあります。

 『学び合い』が成立すると、本当になんにもしなくてもうまくいくようになります。それが1日、2日、いや1週間レベルでも問題はなくなるほどのクラスを創ることは可能です。そうなると、気がゆるみます。そうなると、どうしようもなくなるほどのレベルの問題が発生します。

 何度も書きましたが、『学び合い』が何故うまくいくかと言えば、『学び合い』を理解しリード出来る子どもはクラスには4、5人以上は必ずいるからです。その子が目配せをして動くから、どんなクラスでもうまくいくんです。そして、教師の「みんな」という課題設定によって4、5人が7、8人になり、クラス全員に広がります。でも、クラスの中には、教師がいくら言っても、ちょいとでも隙があれば遊び出す子がいます。そして、クラスの過半数は、教師が気を抜けば、その日のうちにだらける子です。だって、楽したいのは当然ですから。しかし、そういう子どもがいるのに、教師が1週間レベルで気を抜いても大丈夫なのは、先に述べた4、5人が踏ん張っているからです。でも、その子でさえも、教師が気を抜けばだんだんと気を抜き始めます。そうなると、クラス全体にその歪みがたまっていき、あるとき教師が気づき愕然とします。

 4、5人が気を抜くというのは本当は正確ではありません。気を抜くしかないのです。だって、同じ同級生に対して、『学び合い』で求めている負担を求めることがその子たちに可能なのは、教師がそれを求めているからです。これって、研究主任と校長の関係に似ていると思います。教師の意志が見えづらくなると、同じ同級生に言いづらくなります。そして、無意識に気を抜きます。

 『学び合い』で重大な問題が起こるとき、それは教師のゆるみが原因です。そして、それは、問題が起こる以前からずっと前からゆるんでいます。子どもを信頼するという美名のもと、放任になっているためです。放任と信頼の違いは、課題を求め評価するか、それが無いかです。もっと、もっとを求めないと言うことは、気がゆるんでいることであり、放任していることです。

 私のゼミで重大な問題が起こったことがあります。その際、あるゼミ生とのメールのやりとりです。(一部、ちょいと改変しています)

こんにちは 上越教育大学大学の●●です。●くんの●のことはショックでした。最近は自分のこと(論文)ばかりで●くんと話す機会もありませんでした。なので,●のことも彼らがやっているから任せておけばいいやという感じでした。●くんも悩んだ末に出した結論だと思うのですが,相談にのってやれなかったこと,いや,それ以前に相談しに来られなかった雰囲気(環境)を出していたと思うと,●くんにとても申し訳ないと思います。さらに,学び合える環境をつくっていただきながら,このような結果を出してしまい,先生に対しても申し訳ない気持ちです。本当にすみませんでした。集団が高まるようにしていかなければならないのに,自分のことしか考えていない行動をとってしまい,『学び合い』を伝えるどころか,自分自身もう一度考え直さなければならないと思いました。先生もお聞きになったと思いますが,●月●日(●)●:00からみんなで話し合います。そこでどのような話が出てくるかわかりませんが,なんとか前向きに考えていけるような話し合いにしたいと思います。

こんにちは西川です。いえいえ、全ては管理者たる私の責任です。でも、●さんには、その管理者の立場で他山の石としていただきたいと思います。一つ思うのは、私は高い目標を与えています。●さんに関しても、●県を変えろ、と本気で言っています。でも、私も●さんも、基本は自分なんです。その自分と高い志が一致するということが分からないといけないんだな~、と思いました。じゃあ、どうするか?それは私には分かりません。だから、皆さんにお願いする次第です。よろしくお願いします。

こんにちは 上越教育大学大学の●です。西川先生の目標の設定の仕方は間違っていないと思います。しかし,「その自分と高い志が一致するということが分からないといけないんだな~」の部分はちがうと思います。管理者は高い目標を掲げます。しかしその目標を全ての学習者が理解できるとは限りません。一方で,その目標を理解できる学習者がいることも確かです。つまり,学習者は多様なのです。例えば,1対1でつながるならば,「自分と高い志が一致する」ことがわからないといけないと思います。しかし,集団へつながるならば常に高い志が必要となります。そうでなければ集団のレベルが下がってしまいます。「自分と同じ高い志が一致する」ことをわかることが大切なのではなくて,自分と同じ高い志をもっているかどうかわかろうとすることが大切なのだと思います。そして,その集団には,自分と同じ高い志をもっているものがいると信じることが大切なのだと思います。これからどうしていくか,とにかくみんなで考えていきます。

こんにちは西川です。よく分かっていますよ。自分自身で背負えるほど、自分はスーパーマンではないことはよく分かっています。あははは。でも、その結論は、周りの人に厳しいことを求めているのです。『学び合い』の基本は、つねに一貫しています。本当に恐ろしいぐらい。つまり、私はその基本をゼミ生に伝えきれなかったことを悔やんでいます。そして、その他の同志にも、どれだけ伝えられたか・・・を恐れています。

追伸 この後にゼミ生集団の出した結論に、感謝と感激で大泣きしたことを覚えています。いまも、思い出してウルウルしています。上記のレベルのゼミ生がいて、そして、それでも気がゆるむ。そして、その原因は私なんです。

[]教科の力 09:06 教科の力 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 教科の力 - 西川純のメモ 教科の力 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私が若かったとき、ある学会に参加しました。そこでのシンポジウムで文部省の教科調査官が指導要領の改訂を説明していました。その後、質疑がありました。フロアーの一人の教師が、指導要領改訂によって自分が今までやっていたことができなくなった、と教科調査官を責めました。その調査官は、その人に、いったい誰の判断でそれをやるべきだと考えたのかを問いました。そして、その考えは子ども、保護者等の意見をくんでやったのかを聞きました。結局、その人が良いと思って、やっていることをあらわにしました。その後、指導要領の決める過程を説明しながら、ちゃんとした法的プロセスによって決まっていることを語り、一方、その人の言っていることは、その人の思いこみであることを明らかにしました。ドキドキしながら聞きましたが、教科調査官の発言の圧勝と私は判断しました。

 最近、ある人が『学び合い』の実践をつまらん実践だと評しました。つまり、我々の実践では「業者テストで80点以上をとりなさい」のような課題を与えます。その人は、「単なる点数を上げるための授業にすぎない。社会科の先生は、そんなことを願っているわけではない」とのことです。言わんとすることは分かるし、その人は個人的に大好きな人です。しかし、「あ~・・・、しょうがないな~・・」と思います。

 その人の言う「社会科の先生の願っていること」って何でしょう。これは社会科を国語にしたって、理科にしたって同じです。おそらく、多くの社会科の先生は、それがあると思いこんでいます。しかし、私は無いと思います。他教科はいざしらず、理科はないと思います。私は、理科教育関係で3つの学会・団体から5つの学会の賞を頂いています。そのうちの理科教育学会賞は、学会五十数年の歴史の中で8人しか頂いていない賞です。その私が断言します。例えば、「科学的概念の形成」という言葉があります。しかし、科学的概念がいかなるものであるかなんて、確定したものはありません。また、「自然を愛護する気持ち」というもがありますが、いかなるものによって評価するかなんて確定していません。十人の理科教師がいたら、十通り、いや百通り(つまり、一人の中でもぶれがある)の解釈があります。理科教師が「科学的概念の形成」や「自然を愛護する気持ち」を語っているときは、一人一人は別のことを言い合って、「大事だよね~」と合意しているにすぎません。他教科に関しては、理科教育に比べて強く言えるだけの業績はありませんが、自然科学を背景とする理科でもこの程度なのですから、他教科の場合の定義はさらに困難であることは容易に推論できます。だから、「社会科の先生の願っているのは違う」等の意見が出ると、「じゃあ、それは何かを明確に定義し、それらが何らかの合意を受けている根拠を出してください」と私は言いたくなります。断言します。そりゃ無理です。つまり、社会科の先生の願っていることではなく、「その人」(まあ、せいぜい一部の人)がかってに願っていることなんです。

 一方、『学び合い』では、民主的に定まった法律に基づいた指導要領、それに基づき検定を受けた教科書、それに準拠した業者テストの点数を上げよと言っているのです。何が問題でしょうか?もちろん、「その人」の願っていることが無価値とは言いません。直感的にもいいだろうな~っとは思います。しかし、その人のクラスで、その人のバカにしている業者テストの点数の最低点が80点以上常にクリアーしているのでしょうか?もし、そんな程度の下らん基準さえもクリアーしていないとしたら、それを下らんと言う資格はないと思います。我々は「その人」が思っていることを達成することを求められて給料を頂いているのではありません。だれも、それが妥当であると保証していないのですから。まずはともかく、その人が下らんと思っていることをクリアーすべきだと思います。

 次に、『学び合い』で学んでいる教科の内容は、本当は下らなくありません。だって、前の担任がこの子は知的に障害があると思いこんでいた子が80点以上を実現するのです。その子と他の子の会話がいかに凄いことを語っているかは当然です。どうして、『学び合い』の際の子ども会話に耳を傾けられないのだろう、と情けなくなります。その程度の耳や目しか持ち合わせず、「何が教科の力か!」と思います。

 まあ、悪気がないのは分かります。でも、自分たちの言う「本当の教科の力」というのが根拠不足であることを自覚して欲しいな~っと思います。