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2009-03-02

[]切ない 19:27 切ない - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 切ない - 西川純のメモ 切ない - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ある人達から、ある学校の様子を聞きました。聞いていて、切なくなります。そのクラスの子ども達は苦しんでいます。そして、その大多数は、『学び合い』をやれば2週間以内に楽になります。そう分かっても、私にはどうしようもありません。私は、求める人に伝えることは出来ますが、求めない人には無力です。もし、求めていただければ、距離の近いので、何とでもサポートできます。でも、何も出来ません。聞きながらウルウルしてしまい、「もう、それいじょう言わないで下さい」とお願いしました。

追伸 その後、何が出来るかを、暑苦しく語りました。

[]整理 08:57 整理 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 整理 - 西川純のメモ 整理 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ある同志より、以下のメールを頂きました。個人特定が出来ないように多少加除して以下に示します。

『そもそも西川先生が批判する「一斉授業」とはどういった授業なのか?形式なのか?子どもが座っている、聞いているという現象なのか?教師が教えていることなのか?それとも、子どもは有能だと信じていないことなのか?「みんな」でするというのを求めないことなのか?そもそも『学び合い』でなければすべて一斉授業なのか?このあたりの定義がよくわからないのでないかと思います。だから、『学び合い』をしていない人は、全員、自分が批判されていると思ってしまうから、かたくなになる。僕はそうとらえています。

学び合い』は考え方であり、一斉授業というのは授業の形式である。そもそも対立概念ではないということ。『学び合い』という考え方でさえあれば、一斉授業であろうと、教師が教えようとかまわないということもあったように思いますが、この辺はたぶん考え方と方法とをごっちゃにしている人にはまったく理解できないと思います。一斉授業だろうが、佐藤学の学び合いであろうが、その考え方の部分に、子どもは有能で、教師は学ぶ子どもの環境を整え、学校は、子ども同士が関わりあって課題を解決する場だということを思っていれば、そういう方法を子どもが選択するということは十分あり得ると思います。西川先生も、『学び合い』で、子ども同士が立ち歩いたりしながら、課題を解決するというのは、考え方から導き出される必然であるということは言っていましたが、「立ち歩け」とか「話し合え」とか「80点以上とれ」ということではないとおっしゃっていたように思います。また、少なくとも、一斉授業をできる(または子どもをせめて静かにさせる、課題を出されたら取り組もうとは思う)レベルの指導力、または人間的魅力が必要である、という部分に関して、もっと伝えなくてはいけないのでは。という話も上がっていました。そもそもその時点でつまずく先生も多いはずです。そうすると、一斉授業をしているのではなく、一斉授業すらできないで、学級崩壊させている先生にこそ『学び合い』に取り組んでほしいのですが、この人たちは、一斉授業をしているから批判されるのか、一斉授業すらできていないから批判されるのか、よくわからないと思います。

 仲間の中では、西川先生は、「ぶれない」ということを大事にしているから、こういったことには頑ななのではないかという話も出ていました。たしかにそうなのかもしれません。考え方を現場に導入するのは、僕らが解釈して持っていけばいいので、西川先生はぶれないことが大切なのかも。という話にもなっていました。

あっ、あと「一斉授業」はひどすぎて、『学び合い』のほうがましということも、いまいち伝わりません。一斉授業が、いかにまずいかということを、一つ一つあげて整理していただいたら、こういうことをやっている人が、『学び合い』のいう「ひどい授業」をしている人で、この解決のためには、『学び合い』の考え方がいいみたいですよ!って言えます!!

 あなたは、こんなひどい!仕打ちをしていませんか?

1 理解できる2割の子どもだけを使って授業をしている

2 わからない子にも、わかりましたと言わせている

 という感じで、なにが批判されるべき授業なのか具体的にわかることがいいのかもしれません。膨大な量になるのかもしれませんが…。

「広げる」ということに関しては、僕も僕なりにできることをしようと思っています。ただ、僕は現場なので、あまり厳しくバッサバッサと切っていくと、反対の力が強くなってしまうので、それはできません。ご存じのとおり、データや、子どもの姿が採用されるのではなく、なんとなくいや、あの人きらい、といった感情レベルで採用されていく職場ですので(^^ゞ

 久しぶりのメールなのに、まとまらない内容で申し訳ありません。西川先生にとっては、今までも、こんな内容は聞かされて、分かった上でのご発言だと思います。僕自身、書いていてだんだんわからなくなってしまったので、失礼にあたるかもしれませんが、そのまま送らせていただきます。僕は僕にできることを、まずは実践していきたいと思います。今後ともどうぞよろしくお願いします。』

 以上は、多くの同志の疑問なのだと思います。改めて整理します。

 最初に書きますが、一連のメモは同志に向けてのメモです。だって、『学び合い』を分からない人に、『学び合い』と他との比較なんか出来るわけありませんから。だから、『学び合い』を分かった人、つまり考えとテクニックの違いが分かっている人宛のメモです。ところが、それにもかかわらず、分かりやすいと思って不用意に「一斉指導」という言葉を使ったため、混乱を生じたと思います。お詫びします。

 私の言う「普通の授業」とは『学び合い』以外の全ての教育です。具体的には、『学び合い』の学校観と子ども観に反する教育です。ただし、補足がいりますね。

 「多様な人と折り合いをつけて課題を達成することは大事だけど、一人で考え「させること」も大事」と考えている教育はアウトです。だって、「教師が一人で考えさせなくても、子ども「たち」は一人で考えるべきところは一人で考えられる」と考えられるのが『学び合い』の子ども観ですから。でも、「子ども「たち」は一人で考えるべきところは一人で考えられるのだが、自分が未熟だから(もしくは自分の職場の状況で)一人で考えさせている」ならば『学び合い』です。だって、考えは理解しているのですから。方向性が定まっているのですから、その方向に変化するでしょう。

 「人間関係づくりは教科外の担当で、教科は教科の学習が中心」、「低学年は教師がしっかり教えなければならない」、「特別支援は、教師の個別支援しかあり得ない」、「教科の特性があり、教師がしっかり教えなければならない」・・・は全てアウトです。しかし、いずれの場合も、「『学び合い』ですべきなのだが、自分が未熟だから(もしくは自分の職場の状況で)出来ない・・・」は『学び合い』なのです。

 つまり、非常に簡単に言えば、学校教育において「『学び合い』ですべきではない場面はありえるか?」という問いかけです。繰り返しますが、「べき」であって、「自分が未熟だから(もしくは自分の職場の状況で)出来ない・・・」ではありません。私は、ありとあらゆる場面で『学び合い』をすべきと考えています。これは間違いでしょうか?これを同志に問うているんです。ただし、それに対して代案がある場合に限ります。

 なお、私は「ぶれ」ません。このことに関しては頑固です。そりゃ、「それもありだよね」と言った方が政治的には有効であることは、バカである私もよく分かっています。でも、そうしたら、直ぐに元の木阿弥になってしまいます。そして、現状の授業と変わりない『学び合い』が生まれてきます。これは絶対に避けたい。

 Kg原器はパリの国際度量衡局にあります。でも、料理を作るのにKg原器を使えとは言いません。同志各位がうまく政治をしてください。

 私の好きな言葉に「志は高く、現実には柔軟に」という言葉があります。ある意味で、安易な言葉にとられがちです。でも、現実に柔軟であり、かつ、志を高く維持しつつけることは、本当の意志の力が試されます(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20050508)。