■ [大事なこと]提唱者
私は『学び合い』の提唱者となっています。でも、私が発見したというと、ちょいと意味が違います。多少の誤差はありますが、平成13、14年度ぐらいまでは、現場の優れた先生の知恵をいただいていました。正しいことは、多くの人が気づいています。逆に、だれも気づいていないならば、それは間違っている可能性が高い。『学び合い』の基本的な部分は優れた先生が、経験の中でたどり着いています。最初は、その知恵を臨床的手法で抽出することが最初でした。
でも、現状の学校では、一定の常識が働き、ある一定以上は行きません。例えば、部活指導では『学び合い』は現状でもやっている先生は少なくないと思います。ところが、部活で『学び合い』をやっている先生の大多数は、教科学習では『学び合い』をやっていません。教科学習で『学び合い』をやっている先生も、それはイベント的、補完的なものにとどまっており、メインは従来の授業だと考えています。しかし、私はそれまでの研究の蓄積から『学び合い』の学校観・子ども観を整理し、そこから導かれるであろう姿を求め続けました。平成14、15年あたりから、現場の知恵をどんどん超え始めました。具体的には、ゼミ生にあるべき姿を語ってもなかなか受け入れてもらえなくなりました。
平成12年度以前ならば、多くの先生方が疑問に思っている「よい話し合いをさせるにはどうしたらいいか?」とか「班のグループ編成をどうしたらいいか」に対応する研究テーマです。だから、受け入れやすい。ところが、平成14、15年あたりからは、多くの現場の先生方が一度も疑問に思ったことがないようなことをテーマとするようになりました。例えば、「子どもに指導要領を示して、評価基準・規準を考えさせる」とか「同じ部屋に別々の学年が、別々の教科を学んで学び合う」などは、おそらく多くの先生方には想像を超えたものです。それは、『学び合い』を学ぼうとするゼミ生でさえ、そうです。しかし、私は『学び合い』の学校観・子ども観から導かれることを頑固に主張し、求め続けました。
ただし、求め続けるのは私の仕事ですが、答えは常にゼミ生が教えてくれました。現在、我々の仲間はゼミ生にとどまらず、日本全国の同志に広がっています。そして、その広がりは大学研究者の同志が広がるにつれ、学術の世界でも地位が確立しつつあります。
私が求めるだけです。同志が素晴らしい答えを教えてくれます。そうやって『学び合い』は発展してきました。