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2009-03-14

[]根幹と枝葉末節 19:39 根幹と枝葉末節 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 根幹と枝葉末節 - 西川純のメモ 根幹と枝葉末節 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 教師の仕事は、目標の設定、教授(子どもから見れば学習)、評価、環境の整備の4つです。普通、教師は教授を仕事の中心と考え、他の三つは相対的におざなりにしています。しかし、我々の子ども観によれば、教授(子どもから見れば学習)は子どもに任せる部分が多い、と考えています。

 一方で、従来はおざなりにされてきた、目標の設定、評価、環境の整備が仕事の中心であると考えています。何故なら、それは教師しかできないことであり、それを放棄すれば学校教育ではなくなるからです。

 しかし、その目標の設定、評価、環境の整備であっても、その方法に関して、つねになりたつ最善の方法があると考えれば、そではつねになりたつ最善の指導法があると考えている従来の考えと同じで『学び合い』ではありません。つねになりたつ最善の方法なんてありません。でしょ?

 では、その場においてなりたつ最善の方法(学習法・指導法のみならず、目標の設定、評価、環境の整備の方法も含みます)を求める基準は何なのでしょうか?それが学校観と子ども観です。ここのところは不動です。

 『学び合い』の学校観も子ども観もシンプルです。学校観は、「学校は、多様な人とおりあいをつけて自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、より多くの人が自分の同僚であることを学ぶ場」です。子ども観は、「子どもたちは有能である」です。馬鹿馬鹿しいほど当たり前で、シンプルです。でも、本当は見た目と違って本当に革命的です。どこが革命的かと言えば、『学び合い』ではこれを本当に信じているからです。

 「学校は、多様な人とおりあいをつけて自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、より多くの人が自分の同僚であることを学ぶ場」と言って、「そりゃ違う」と言う人はいないでしょう。でも、『学び合い』では、これは全員について成り立つと考えています。例えば、ダウン症の子どもも、肢体不自由の子どもも、暴力行為を繰り返す子も・・・です。多くの人は、そのような子どもを無意識に、当然に、除外して考えています。『学び合い』では、それを含めた子ども全員の目標だと考えています。革命的でしょ?

 また、多くの教師は、上記の目標と独立した教科特有の目標があると考えます。それ故、それに配慮する必要があると考えます。ま、そう考える人が多いのは当然ですよね。でも、そんなこと考えなくても無矛盾と考えます。上記が成り立てば、教科の目標は自ずと成り立ちます。逆に、矛盾しているならば、そりゃ学校教育で扱うべきものではないと考えます。革命的でしょ?

 また、「おりあいをつけて」を「仲良く」と勝手に誤解してしまいます。でも、『学び合い』の場合は腹の中で嫌っていてもOKなんです。折り合いをつけさえすれば。教師ドラマ・青春ドラマの見過ぎの人だったら驚くでしょうね。革命的でしょ?

 子ども達は有能だと言って否定する教師は少ないでしょうね。でも、圧倒的多くの教師は、「低学年では・・・」、「数学では・・・」、「体育では・・・・」と限定を加えます。でも、『学び合い』ではありとあらゆる場面で子ども達は有能なんです。さらに言えば、多くの教師は個々の子どもの無能に目をとられます。だから、気になる子どものことでイライラしています。ところが我々が着目するのは子ども「たち」なんです。革命的でしょ?

 私の判断は不動なのは、考え方の基本がシンプルで、そしてそれを本気で信じ切っているからです。だからゼミ生と議論する際、「だって、色々な人と折り合いをつけて課題を解決することが学校の目的だもん」、「だって、子どもたちは有能だよ、バカにしちゃいけないよ。第一、あんたはそんなに有能なの?」と言うことが少なくありません。たった二つの考えをシンプルに信じ切れれば、どんな場面でも適用できます。だって、シンプルに信じ切れるというのは、どんな場面にも適用できると信じ切れることですから。

 でも、これから『学び合い』を実践しようとしている人、また、迷っている人には禅問答でしょうね。やって下さい、そして、悩んで下さい。我々はサポートします。結果として、本当に馬鹿馬鹿しいほど当たり前で、シンプルな考えを信じられるようになればいいんです。