お問い合わせ  お問い合わせがありましたら、内容を明記し電子メールにてお問い合わせ下さい。メールアドレスは、junとiamjun.comを「@」で繋げて下さい(スパムメール対策です)。もし、送れない場合はhttp://bit.ly/sAj4IIを参照下さい。             

2009-04-13

[]似非 09:24 似非 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 似非 - 西川純のメモ 似非 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 「新しいものをそのまま受け入れず、取捨選択し、良いところを吸収し自らを高める」というのは一般には正しいことのように思えます。しかし、『学び合い』の場合は似非になる可能性が高い。理由は、『学び合い』を考え方として理解せず、テクニックとして捉えているからです。その結果としてつまみ食いをするためです。

 たいていの人が、例えば「私語・たち歩きはOK」とか、「教師は殆どしゃべらないとか」、「良いところを積極的に全員に語る」とかのテクニックレベルを取捨選択して使います。でも、それは『学び合い』の本体ではなく、テクニックで、枝葉末節なんです。例えばです、中世のキリスト教が近代科学の自分たちに都合の良い部分を取捨選択して使い、「神の御技」を「科学的?」に証明するようなものです。そんなことで証明されることは神様だってお望みではないと思います。科学の本体は、「事実に基づき出来るだけシンプルな論理で世の中を記述し、予測する成長する知恵」だと思います。ところが、中世の科学的神学は事実全体に基づいていないし、論理がシンプルではありません。そして、証明したいものが最初にあって、論理が後付です。実験の理論負荷性からいって論理が後付であるのはナチュラルなのですが、それが露骨すぎます。それでは科学じゃない。

 『学び合い』の本体は学校観と子ども観です。

 学校観とは「学校は、多様な人とおりあいをつけて自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、より多くの人が自分の同僚であることを学ぶ場」であるという考え方です。

 子ども観とは「子どもたちは有能である」という考え方です。

 おそらく、多くの人には、毒にも薬にもならない建前論だと思うでしょう。そして、「当たり前だよ」と言って、反対する人はいないでしょう。だから、それを見逃して、テクニックが本体のように思ってしまいます。まあしょうがありません。今までの教育では、毒にも薬にもならない建前論ばかりで、使えるとしたらテクニックばかりですから。そして、テクニックの集積が考え方だと誤解してしまうのもしょうがありません。でも、上記のふたつはものすごく強力なんです。そして、多くの人は、それを受け入れることが出来ません(今のところは)。

 例えば「学校は、多様な人とおりあいをつけて自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、より多くの人が自分の同僚であることを学ぶ場」に「多様な人」と書いています。我々の「多様」とは文字通り全員なんです、みんななんです。「LDの子」、「自閉症の子」、「外国人で日本語を全く話せない子」、「アスペルガーで常に周りの子どもと喧嘩をする子」、「家庭の事情で1週間以上風呂に入れない子」、「肢体不自由の子」・・・・全てです。大抵の先生は「クラス仲良く」と看板を掲げても、「あの子はしょうがない・・」と無意識に特定の子を除外した「クラス仲良く」を考えます。そして、あえて「そりゃみんなではないでしょ」と言われれば、「空を飛べ」と同じぐらい無理難題と思っていると思います。

 例えば、「学校は、多様な人とおりあいをつけて自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、より多くの人が自分の同僚であることを学ぶ場」には「おりあいをつけて」と書かれています。しかし、多くの人は「仲良く」のような表現を使います。でも、全ての人と仲良くなれるはずありません。でも、「仲良く」を求めれば、評価が甘くなります。つまり、本当に仲良くなくても、しょうがないと諦めます。それでは駄目です。全ての人と仲良くなれるわけではありませんが、折り合いをつけることは出来るはずです。だって、自らの職場を考えて下さい。腹の中では嫌いと思う人がいたとしても、その人と折り合いをつけて仕事をすることは可能ですよね。出来ると思うから、我々は全員に折り合いを求め、それが成り立たないことを絶対に認めません。

 例えば、「学校は、多様な人とおりあいをつけて自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、より多くの人が自分の同僚であることを学ぶ場」と書いています。ところが、多くの先生は国語を学ぶこと、理科を学ぶことが学校の目的だと思っています。それ故、そのためには「おりあいをつけて」解決しなくて良い場合、つまり、教師の話を黙って聞いてノートに写す時間があって良いと思います。でも、我々の場合は、学校の校庭に入ってから、学校の校庭を出るまでの時間、1分1秒の例外もなく、「学校は、多様な人とおりあいをつけて自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、より多くの人が自分の同僚であることを学ぶ場」だと考えています。

 このように書くと、『学び合い』の学校観はかなりラディカルであることがおわかりだと思います。子ども観だって同じです。子どもは有能だといった舌の根が乾かぬうちに「小学校低学年は指導が大事だ」、「英語科は外国語なのだから・・・」、「中学校は受験があるから・・・」・・・・とありとあらゆる理由を挙げます。結局、心の中で子どもは愚かで無能であると思いこんでいるのです。

 『学び合い』を本当に実践するには、「私語・たち歩きはOK」とか、「教師は殆どしゃべらないとか」、「良いところを積極的に全員に語る」はどうでもいいんです。まあ、それはやった方がいいと思いますが、それは考え方の帰結でやるのです。本当は、上記の学校観、子ども観を本気で信じられるか、否かなのです。

 ネットサーフィンをすると、幸いなことに『学び合い』に関する認知度は高まっていることを感じます。しかし、考え方ではなくテクニックのレベルだな~と感じる方もいます。まあ、今までと同じように、良いところを取捨選択して吸収すればいいと思っている善意の先生方がいます。まあ、しょうがありません。その先生方の中に、『学び合い』の考え方の原初の考えがあれば、とりあえずは成功します。その中で気づいて欲しいと思います。『学び合い』はテクニックではなく、考え方であることを。その考え方を、丸呑みするしかないのです。