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2009-06-08

[]出張の意味 22:41 出張の意味 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 出張の意味 - 西川純のメモ 出張の意味 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 不遜ながら、私は「オジェジェ」をいただける講演をしているつもりです。でも、私は「面白い」と思ってもらえるために出張しているわけではありません。そんなんだったら、「オジェジェ」を規定通り頂きたい。それなら、芸人としてしっかり芸をします。

 でも、私が出張するのは、『学び合い』をトライする人を生み出すためです。数百人を前にした講演でも、おそらく、翌日にまで続く人は1割もいないと見切っています。そして、トライする人は、極々僅かです。でも、一人の人が変われば、その人が教える数百、数千の人の人生に影響があります。もし、その人が数人の教師に伝えたとしたら、数千、数万人の人生に影響があります。それは、とてつもなく尊いことです。だから、「やる」という最後の一歩を踏み出す人が数人であったとしても、価値があると確信しています。

 神奈川の会で、その一歩を踏み出した人がいることを知りました。出張した意味があったと思いました。

http://blog.goo.ne.jp/inocch2007-/e/529a5f85f30762031e269144e97be25a

[]神奈川の会 08:51 神奈川の会 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 神奈川の会 - 西川純のメモ 神奈川の会 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 素晴らしい会でした。

 私はいつも通り原理原則を語ります。そこからです。

 三崎先生が『学び合い』を体験させ、水落先生が安全な始め方を説明しました。お二方とも、いつも通りに素晴らしいものでした。

 そのあと実践報告です。最初の若い先生(マルさん)は、『学び合い』を初めて2ヶ月です。その中で色々なことを悩み、色々なことを得たことを語りました。語りの内容ももちろんですが、あの語りの「雰囲気」が多くを語っていたと思います。

 そして、ゆうゆうさんの教え子達の語りです。テレビ業界では「子どもと動物には勝てない」という言葉があるそうです。『学び合い』では、それ以上だと思います。おそらく参加者の心に伝える力は、私はもちろんのこと、三崎・水落先生を上回っていることは、両先生も認めることだと思います。今回は最前列に陣取りました。理由は昨日と同様にボロボロと泣いても、参加者には見えないからです。最後に子ども達と握手しました。

 本日の仕事があるため、懇親会にも参加せず家に直行です。(残念・・・帰宅は深夜でした)新潟への帰りに、ゼミ生から何故あのような会が成立したかを聞かれました。そりゃそうでしょう、『学び合い』に出会って数ヶ月で、あれだけのことが出来るのを目のあたりにしたのですから。私の応えは、『学び合い』の一言です。子ども達がとてつもないことを毎日の授業でやらかすのと同じです。何故かを分析しても、とりたてて「これだ!」というものを挙げることは出来ません。関わる人が、それぞれの事情の中で折り合いをつけながら、一つの目標を実現するために関わっている中でできあがるのだと思います。

今までの教育では「どのようにして」という方法のレベルを重視します。そして、方法を強います。しかし、『学び合い』では目標が重要だと考えます。今回の成功は、メンバーの願い、そして志が素晴らしいことに起因しています。

追伸 あれだけの会をやるとしたら、泊まりがけの会が必要だと思いました。

[]教祖様 08:51 教祖様 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 教祖様 - 西川純のメモ 教祖様 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 キリスト教の旧約聖書はユダヤ教の聖典です。ですが、キリスト教とユダヤ教は同じだと言えば、おそらくキリスト教徒もユダヤ教徒も納得しないでしょう。キリスト教の新約聖書・旧約聖書はイスラム教の聖典です。ですが、キリスト教とイスラム教は同じだと言えば、おそらくキリスト教徒もイスラム教徒も納得しないでしょう。

 何度も、何度も書いていることですが、私は教祖様になるつもりはありません!

 が、『学び合い』の会では、そのような役回りを演じなければならず、そのため、そのように思われます。でも、しょうがありません。我々は既存の枠組みで物事を理解しようと考えるように頭の構造上そうなっているのです。従って、『学び合い』を理解しようとするとき、既存と同じだと理解しがちです。でも違いを理解してもらわなければならないと、私は考えているから、あえて違いをハッキリと言わなければなりません。結果として、傲慢・不遜のような物言いになってしまいます。結果として、好きになってもらうにせよ、嫌いになるにせよ、極端になりがちです。でも、本当の私はどちらでもなく、中庸のつもりです。ただ、語りはハッキリとしなければならないと思うから、そのように演じています。

 我々は「異質な集団は得るものが多い」ということを知っています。ただし、それは基本的な目的が一致した場合、つまり『学び合い』が成立したときのみのことです。それが一致しない集団の場合、集団が異質であればあるほど、そのパフォーマンスが下がることが明らかにされています。では、『学び合い』で一致すべきものは何かと言えば、そりゃ、学校観と子ども観です。授業観は、その二つから導き出されるものです。

 例えば、『学び合い』の学校観は、子どもたちを関わらせる場面の多い教育と似ているでしょう。しかし、根本的に違います。というのは、多くの場合、それらは「学力保証」とか「人間関係づくり」に有効だから、手段として採用しています。しかし、『学び合い』は、多様な人と折り合いをつけて自らの課題を達成すること、それが学校教育の目的だと考えています。

 例えばです。私が「業者テストの最低点が80点以上」という課題を事例として挙げると、「人間関係づくり」の手段として子どもを関わらせている方の場合は、「『学び合い』は受験学習だ!」と非難されます。逆に、「学力保証」の手段として子どもを関わらせている場合は、「業者テストの点数なんて学力ではない」と非難されます。いずれも、子どもたちが関わることの意味を低く捉えていることに起因しています。関わることによって、子どもたちはどれほど高い学力を獲得し、どれほど複雑な人間関係を創りあげるかをご存じありません。しかし、我々は膨大なデータを通してそれを学びました。だから、私は学力と人間関係を分ける二元論との違いを言わなければなりません。

 しかし、中には我々の学校観に極めて近い学校観をもつ教育は存在します。しかし、子ども観が違います。特に、それは教科学習の場面で端的に表れます。

 我々は学ぶこと自体は、教師がごちゃごちゃしなくても子ども「たち」は持っていると考えます。ところが『学び合い』以外の多くは、そういう部分もあるが、教師がしっかりと押さえなければならないと思っています。そこが違います。もちろん『学び合い』においても教師が押さえなければならないところがあります。しかし、それは目標、評価、環境整備の三つであると考えるのに対して、多くの教育は「どのように学ぶか」も教師が押さえなければならないと考えています。この差は、子どもの能力の過小評価と、教師の能力の過大評価に起因します。

 子どもの能力の過小評価は、子どもを子ども個人と考え、子ども集団としてとらえることが弱いためです。面白いことに、子どもを集団と考えるべきだと考えている教育においても、その個人と個人を教師が結ばなければならないと考えています。我々は、個を一度忘れて(本当は忘れていませんが)、集団づくりに視点を置きます。そして、「みんな」ということを本当に求めれば、細かなことをしなくても集団が機能することを知っています。

 教師の能力の過大評価は、子どもを個として見ずに、抽象的な「子ども」として捉えているからです。本当は、子どもは一人一人、その時その時、違います。我々は、一度、徹底的に個に拘り、データを出したから、そんな多様な子どもの個に対応なんか出来ないと見切っています。ところが子どもの個を知らず、抽象的な「子ども」としてとらえられるから、「子ども」にとって有効な教材、「子ども」にとって有効な机の配置・・・というものが有ると考えてしまいます。しかし、そんなものありません。

 以上のような違いを曖昧にしたままでは、『学び合い』は絶対に実現しませんし、協働もありえません。だから、ハッキリと言わざるを得ず、現在、その「役」を私が演じているのです。

 私の話を聞いて、私を嫌いになっても結構です。いや、それは健全な反応だと思います。私だって、私の講演は嫌いです。しかし、「『学び合い』=西川」ではありません。『学び合い』は考え方で、個人ではありません。私が嫌いならば、私とつながる必要はありません。でも、世の中には様々な方が『学び合い』を実践されています。その方とつながりながら、『学び合い』を理解していただければと願います。

 全ての教師は、数多ある職業から教師という職を選びました。その選択の志は同じです。私を嫌いな人も、『学び合い』に拒否感もある方も、みんなそれは一致しています。今、学校では多くの子どもが苦しんでいます。私は一人も苦しまない学校を実現したいと願って『学び合い』に至りました。是非、それだけは信じて欲しいと願います。

追伸 ある講演会の後、同志の一人から「西川先生、参加者のお一人から、「西川先生は教祖様みたいだ」と言われたんですよ」と笑いながら私に話されました。すかさず「「西川先生は教祖様ではありません、神様です。空中浮揚しているのを私は見ました」と言ってよね」と言って二人で大爆笑しました。