■ [大事なこと]個人的必然
bunbunさんから霊的は駄目だとのご指摘がありましたので、自己分析をします。あははは。全ての人には一人一人の必然性があると思います。私の考え方に至る必然性の、後知恵を書きます。
学校観
私は大学院の時代は毎日、土日もなく13時間以上も本を読み続けました。だから教育学の古典は一応読んでいました。そして、常に「建前論だな~」っと感じていました。それが確信したのは、最底辺校で教えた経験です。子ども達は、素直に「何で勉強するんだよ~」っと語ります。子ども達に、教育学で言われているような学ぶ意味を語りました。しかし、それらは非常に単純な論理で論破されます。言っている私自身が、「俺の方が負けだな~」と納得しました。そして、彼らを納得させるような目的ではなければならないと思いました。それが『学び合い』の学校観に繋がりました。
もし、私が大学院で古典を読んでいなければ、「なんか分からないけど、世の中には凄い目的論があるだろうな・・」という幻想を持ったかもしれません。もし、私が最底辺校で教えてなければ、大学院でのたまっている教科内容依存レベルの目的論で満足していたでしょう。だって、大抵の子どもは、それを表だって反対しませんから。
そして乗り越えられたのは、私が生物学を学んでいたからだと思います。進化論的に人間を見られた点がよかったと思います。
子ども観
私は最底辺の子ども達を教えました。そして、その純粋無垢オール1の子どもも普通の子どもであるということは体に染みついています。多くの教師は時代遅れのピアジェの発達論に縛られています。ちょいと勉強すれば、あれがとうの昔の話であることが分かるはずです。そして、生まれたばかりの乳児でさえ、基本的能力は全てそろっていることが分かります。
私は上越教育大学の教官に採用されました。本学は現職教員と徹底的に子どもを分析できます。これは東大でも駄目です。その結果、子どもの凄さを知ることが出来ました。その結果、テレビドラマ的なヒーローがいる授業ではなく、どこまでもゴチャゴチャしている授業の姿を学ぶことが出来ました。最底辺の子どもさえも戦力となり得る、数十人の子どもの凄さを知ることになります。
授業観は上記の学校観、子ども観の必然です。
最後に、私は生物物理学を専攻した結果として、物理学を学んでいました。物理学を学ぶことによって、単純の美しさを学ぶことが出来ました。複雑な現象を単純なモデルで近似でき、それが有効で美しいことをしっていました。
ま、一人一人は違った履歴と経験によって、『学び合い』に至ったと思います。
■ [大事なこと]考え方
次の時代に、たった一つの科学法則しか伝えられないとしたら、何を伝えるか?おそらく、それは粒子という考え方だと思います。古代ギリシャから現在の最先端の素粒子においても命脈を保っています。
それに比すのはおこがましいですが、『学び合い』の三つの考え方は、『学び合い』研究を始めたごく初期から変わりありません。何故、それに出会えたか、とても不思議です。もちろん神様が教えてくれたというものではありません。ただ、その考え方がシンプルで「美しい」と感じさせてくれたからです。科学において正しいものはシンプルで美しいものです。だから、それを基本原則として研究・実践を続けました。ただし、基本的な考えは一貫しているのですが、その言葉の深みを毎年思いさらされる日々が続いています。
例えば、「15分ぐらいのエクササイズを3回ぐらいで『学び合い』は出来るほど、子どもは有能である」と初期は考えていました。つまり、「15分ぐらいのエクササイズを3回ぐらは学び合うには必要だ」と子どもの能力を見くびっていたのです。これは今でも同じでしょう。私は考えられる全てのことは子ども達集団で可能とすると考えています。でも、無意識に出来ないことを除外しているのでしょう。来年の私は今の私を「子どもの能力を見くびっていたな~」と思っているでしょう。そして、そう思いたい。
宗教じみていますが、『学び合い』の考え方には霊的なものさえ感じます。でも、それは数学者が素数の世界に神の御技を感じるようなものです。