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2009-09-03

[]広がる理由 08:28 広がる理由 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 広がる理由 - 西川純のメモ 広がる理由 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 同志の悲痛なコメント(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/tontan2/20090902)を読み、その現状を察しつつ、違ったコメントを書きたいと思います。

 まず共感する点です。

 私が在住する上越市ということに限定すれば、この十数年間の中で『学び合い』の話を聞きたいと私を呼んでくれた回数は4回にすぎません。同じ期間に、同じ新潟県ですが上越から50km以上離れた中越地方、100km以上離れた下越地方では、その10倍近く呼ばれていますし、全国からは数百呼ばれています。

 私の勤務校である上越教育大学の中においてはもっと広がりません。おそらく実績によって敬意は得ていますが、理解を得ているとは思いません。私が『学び合い』の話を熱心にすると、最初は面白いと感じてくれますが、ある時点以上からは「ひかれ」ます。

 そして、全国の同志からのメールを通して、同僚・上司、社会、教育行政から理解されないという現実を受けています。

 しかし、私は『学び合い』は広がるという確信と実感を持っています。私が悩むのはその速度であって、広がるという確信は悩みません。その理由の第一は、日本全国レベルを考えているからです。

 自分の勤務校というレベルで考えれば、この十年間で広がったとは思いません。いや、狭まったとさえ感じることは少なくありません。

しかし、上越市と考えると遅遅とした歩ですが、広がりました。数年前から、『学び合い』で学校づくりをする学校が2校生まれました。

しかし、全国というレベルで考えると広がったと実感します。5年前に新潟市でフォーラムを開いたときは参加者は二十数人でした。その頃の『学び合い』の会はそれだけですから、年間の『学び合い』の会の参加者は二十数人にすぎません。それが『学び合い』の会は全国に広がっています。桁違いに広がっています。おそらく、私と同じように全国の『学び合い』の会に参加している人、継続的に『学び合い』の会を主催している同志は広がった、今後も広がるという実感を共有してくれると思います。

かつて山本七平はイザヤ・ベンダサンというペンネームで、無宗教と言われる日本人が強固な日本教の信者であるということを主張しました。本当の信者というものは、その教義を理解しているのではなく、内在しているのだと思います。キリスト教徒のどれほどが新旧の聖書を読んでいるでしょうか?浄土宗・浄土真宗の信者のどれほどが浄土三部を読んでいるでしょうか?曹洞宗の信者のどれほどが正法眼蔵を読んでいるでしょうか?でも、そんなのは重要ではありません。それらを読んでいなくとも熱心に信心し、それらの教えに従って生活している信者は少なくありません。おそらく、各宗教の信者、それも歴史の古いメージャーな宗教の信者はそのほうが普通だと思います。その教義を組織的理解している人なんて、それを職業としている聖職者ぐらいでしょう。ちなみに、私は上記を読みましたが、キリスト教徒ではなく、曹洞宗の信者ではなく、せいぜい祖先から受け継いでいるから祭祀を続けている葬式仏教の浄土真宗です。つまり、それを日常に実践するためには、その教義を組織的に理解する必要はないし、理解したからと言って日常に実践するわけではありません。

では、日常に実践する人は、教義も理解せず何故、それを実践できるのでしょうか?それは、それを日常に実践している人の集団の中で生きているからです。文化・文明は書物の中にあるのではありません。人集団の中にあるのです。

しかし、そのような人集団はどのように形成されるのでしょうか?現在、メジャーのものだって全て、最初は少数者でした。広がるには二つのタイプの人が必要です。第一は、アンテナの高い人、つまり新しいことに気づける人です。第二は、広げる力のある人、具体的には多くの人に繋がっており、影響力のある人です。一人の個人で二つを兼ねる人もいますが、多くは、相対的にどちらかに偏っています。大事なのは、そのような人に確実に伝えるために、広い活動が必要なのです。最も端的な例は、神奈川の会です。『学び合い』に出会って、半年もたたずに『学び合い』の会を開催するという離れ業を実現しました。

実は、上記は『学び合い』の考え方と同じです。例えば、あなたのクラスに気になる子がいたとします。多くの教師は、その子に拘ります。そして、エネルギーを費やし、解決せず、疲れます。最悪は、その子を非難し、その子を捨てます。でも、その子を変えられないのは、その教師が無能であったり、熱意がなかったからではありません。無理なのです。では、どうするか。問題を、その子の問題と捉えず、クラスの問題と捉えるのです。そして、クラスを変えることによって、その子を変えます。実は、その子を変えることより、クラスを変えることの方が簡単です。そして、それはもっと広がります。

おそらく、多くの同志は自分のクラスを変えることは可能であっても、それを学校に広げることに限界を感じているかもしれません。しかし、それは自分の勤務校に拘っているからです。もともと今の段階で『学び合い』に気づける人、そして、それを広げようとする人の割合は、少数者です。それを、たかが数十人の同僚の中から多くを見いだすことの方が難しいのは当然です。でも、範囲を広げれば、必ずいると言うことも確かです。その人達の力を使って広げるのです。自分の学校を変えるより、自分の市を変える方が簡単なのです。自分の市を変えるより、自分の県を変える方が簡単なのです。

同僚・上司、社会、教育行政が何故、『学び合い』に無理解なのでしょうか?理由は簡単です。「今までやっていない」、「周りでやっていない」という単純な理由です。正直、イライラすることもあります。でも、そのような人がいるからこそ、日本の教育の不易な部分が守られているのです。そのような人に『学び合い』の理屈をつらつら述べてもしょうがありません。「前にやったことがある」、「周りでやっている」という事実しか説得する方法はありません。では、どうしたらいいか。それは、一人一人の同志が多様な情報発信をするしかありません。

そのための仕組みを、色々と提案してきました。例えば、「『学び合い』の会」、「毎月の会」、「異学年学習」、「ブログ」等です。また、私には全く分かりませんが、ミクシーを活用している方もいます。多くの同志に賛同いただき、実行いただき、素晴らしい成果を上げています。

考えて下さい。今の日本で、自分の実践を自分の職場に広げようとしている人が何割いるでしょうか?また、今の日本で、自分の実践を、自分の学校外に広げようとしている人が何分いるでしょうか?ということは、それらをやりさえすれば、我々は一人で何人、何十人、何百人の影響力を持ち得ます。そして、「周りでやっている」という意識を醸成できるのです。

全ての同志は、自分の職場で出来ることがあるはずです。自分の市町村で出来ることがあるはずです。自分の県で出来ることがあるはずです。日本で出来ることがあるはずです。出来なこともありますが、出来ることは必ずあります。そして、それぞれでトライし、失敗したら、そこに拘らず、別なところにエネルギーを費やせばいいのです。囲碁と同じです。劣勢のところの戦いに拘れば、傷を深くします。深追いせずに、転回すればいい。そのためには、広く、布石を置く必要があります。

私が悩んでいるのは、次の一手なのです。上記の手段で留まっている限りは停滞してしまいます。もっと別な手段はないか?それを模索しているのです。地方の新聞やテレビで取り上げられていますが、それを一歩進ませるにはどうしたらいいか?文科省や県レベルの企画とどうやってリンクしたらいいか?各地の『学び合い』の会をどうやって有機的なネットワークとすることが出来るか?そして、私なんぞには思いもつかないことを、多くの同志に考えていただき、それをどうやって全国の同志に発進してもらえるか?です。

学び合い』が広がるに、限りなく時間がかかるという実感をもたれる方も多いでしょう。しかし、日本レベルを考えると、もの凄いスピードで広がっています。6年前以上は『学び合い』は西川ゼミを中心とした数十人のコミュニティーにすぎませんでした。そして5年前に最初に開いた『学び合い』の会の参加者は二十数人でした。それが5年で約100倍になりました。その比率を5年後に適用すれば二十万人になります。現在、日本の小中高の教師の総計は約100万人です。その二割が革新者・確信者となれば日本の教育を大きく変えることが出来ます。そのような状態になれば、圧倒的大多数の人は、『学び合い』の手引き書を読むことなく、また、『学び合い』の会に参加することなく、職場の中での人の集団の中で生活として理解し、実践することが出来るようになります。それを5年の前に実現するか、5年以降になるかは、みんなが、現状で出来ることを多様に確実に行うことが大事です。そして、次の一手を考え続け、もがき続けるか否かにかかっています。