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2009-09-10

[]朝 09:12 朝 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 朝 - 西川純のメモ 朝 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 天気の良い日は歩いて大学まで行きます。4km強で50分かかります。ipodを聞いて歩きます。定番は落語です。まあ、落語が好きというのが理由ですが、話術の練習という意味もあります。研究室運営は『学び合い』でやっていますが、講演会はバリバリの一斉指導です。暴走族相手に授業をしている頃に比べて、格段に話術が衰えています。それを回復する意味でも落語を聞きます。落語を聞くと、全く同じマクラなのに面白さが全く違います。不思議です。間とかというものでしょう。あれは、話を完全に暗記し、そして離れたときに出来ることです。『学び合い』の会のリピーターのために、意図的に新作の話をすることがあります。しかし、自分なりに納得できる語りが出来るのは定番の話です。そのような話の場合、話の基本は眠っても出来る。そのため、大脳は自分自身をモニターし、コントロールすることが出来ます。そんなことを考えながら落語を聞きます。

 が、今日は天気が良いので久しぶりに中西圭三の曲を聴きました。Glory Daysの部分ではノリノリです。大学までの通勤は、広い田んぼの中を歩きます。ということで私の頭の上は178度(180度ではありません)は空です。澄み渡った空です。空気はひんやりとして気分は良い。風は微風。最高のウオーキング日和です。Glory Daysを聞きながら思わず大股で歩きます。

 あと少しで50歳になりますが、気分は青年です。

追伸 落語のCDDVDをお持ちだったら貸してくれませんか?

[]段位 09:12 段位 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 段位 - 西川純のメモ 段位 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日、自分は何故、若々しくいられるかを考えました。それは志だと思います。それを思いながら歩きながら考えました。かつてのメモに書いたとおり、『学び合い』には段位はないと思っています。

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20060729/1154130853

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20070314/1173830419

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20070611/1181566454

 でも、自分のレベルを維持できる人と、維持できない人はいるようです。残念ながら。『学び合い』は簡単です。バンジージャンプと同じで、一歩ふみだせば、出来ます。もちろん、悩みやつまずきはあるでしょう。しかし、少なくとも従来型よりはましであることは確かです。そして、つまずいたら分かった人に聞けば良いだけのことです。

 まあ、2年もたてばたいていの人は、自分なりの理解をして、安定した実践が出来るようになります。無意識のうちに出来るようになります。が、それでいいと思う人がいます。まあしょうがありません。人は易きに流れるものですから。まあ「もっと」が無くなっていくんですね。そうなると本人が気づかぬうちに腐っていきます。私の経験上、半年単位ではありませんが、まあ2年以内にハッキリと腐ります。そして、自分のクラスが実は本当に腐っていたことに愕然とします。

 しょうがありません。自分が子ども達に「みんな」と求め、「もっと」と求めているのに、その当人がそうではないならば鼎の軽重を問われます。このあたりの理屈が分かるか、分からないかで腐るか、腐らないかの違いが出ます。もっと正確に言えば、誰でも易きに流れます。私もそうです。しかし、腐ったときに、その理由を理解でき正すことの出来る人と、腐ったことを合理化する人の違いが出ます。『学び合い』は「みんな」と「もっと」が自分のためであることを子どもに語り、自らにも語ります。

 長文ですが、私のゼミの目標としてHPに書いてあることをアップします。これを建前だと理解する人もいるでしょう。でも、これは建前ではありません。

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本研究室の目標を「自分の心に響き、多くの人の心に響く教育研究を通して、自らを高め、教育を改善しよう」としました。

 おそらく皆さんの本当の希望は「自分の心に響き、自らを高め」であると思います(単に修了・卒業したいレベルの人は、西川研究室に所属しよう何て思いませんから)。実は私もそうです。しかし、そのレベルを超えた目標を、研究室の目標として掲げることは重要だと考えています。

 世の中には倫理学というのがあります。大学生の頃、それを読みあさった時があります。でも、カント、ヘーゲル、西田は全く分かりませんでした。相対的に分かりやすかったのは和辻です。でも、それでも分かりませんでした。それいらいずっとご無沙汰でしたが、「利己的なサル他人を思いやるサル」という本はどんな倫理学の本より面白く、ためになりました。それによれば、サルにおいても倫理的と思われる行動が見られます。そして、その行動が発生する理由は、その行動によって間接的に利益を得るからです。つまり、弱い仲間を助けたサルは、その群れの他のメンバーから「お返し」が来るんです。なぜ、そんな「お返し」をするかといえば、自分が弱い立場になった時の「保険」みたいなのものです。カント、ヘーゲル、西田のように、どっかに純粋無垢な「善」があるように書かれるのではなく、生々しく、かつ、凄く納得出来るものです。我々は、学び合う能力は本能の中にあると考えています。だから、ゴチャゴチャ言わなくても、自然に発生するものだと信じています。上記の知見は、教師がゴチャゴチャ言わなくても、自然に助け合いが起こるであろうと期待出来ることを証明するものだと思います。

 しかし限界があります。別な猿学者の「ケータイを持ったサル」という本によれば、サルが自身の群れと感じる範囲は極めて狭く、基本は親兄弟で、広がっても普段見知っている集団を越えることは無いそうです。そして、現代の「ひきこもり」や「傍若無人の若者」は、人間の本能の中に組み込まれた「群れ」の範囲がサル並だと考えると、至極当然に解釈出来るとしています。おそらく、これは若者に限らず、人間全般の本能の限界と考えるべきなのでしょう。例えば、年配のおばちゃんが、人の迷惑考えず大声を出しているのは、自分が話している以外の人を、「群れ以外」と分類し、人と認識していないからです。

 私はサルと同じように、自身の損得と、社会の損得自身を冷静に分析し、社会の損得に矛盾しない自分の損得を設定することは「得」だと思います。つまり、みんなを助けるという社会的要請に応えることが自分の得になっていることは、サルと同様に人間でも正しいと思います。ただし、人間の本能に組み込まれている「みんな(もしくは群れ・社会)は、サルと同様に親兄弟、もしくは見知った狭い集団レベルが限界なのだと思います。教師の例で言えば、せいぜい自分の学校の職員集団レベルで、それを越えた集団を群れと認識することは困難で、従って、郡市レベル、県レベル、日本レベルの集団に対する倫理的な行動をすることは困難なのだと思います。それを越えられるのは、本能ではなく、教育によらねばなりません。

 私の大学院の同級生に「教材レベル」の修士論文を書いた人がいます。修了した時に、「お前が作った教材をお前自身が使うの?」と聞きました。彼の返答は「使わない」とさばさばと答えました。つまり、彼にとっての、その教材は自分が修了するため「だけ」の意味しかありません。仮に、自分が使ったとしても、それだけでは、自分のため「だけ」の意味しかありません。ただし、これは教材レベルの研究に限りません。もし、自らが2年間かけてなしたものを自らが使わないならば・・。仮に、自分は使うとして、それを他の人に知ってもらえないならば・・・。私の知る限り、2年間の研究が終わったとたんに、「思い出」の中に死蔵される研究が多すぎるように思います。そして、そんな人は「損」だと思います。

 私には、自分のため、家族のため、そして自身の狭い群れである西川研究室のためという、相対的に狭い範囲の目標があります。しかし、同時に「専門職大学院のため」、「上越教育大学のため」、「学会のため」、「地元教育界のため」、「日本の教育界のため」等々の様々なレベルの目標があります。そして、それぞれに矛盾が生じないよう、相互に関連づけています。そのような多層的な目標を持つため、様々な人とリンクを持ち、かつ、その援助を得ることが出来ます。その結果、とても「得」をしています。

 一方、比較的狭い範囲の群れのための目標しか持たない人もいます。人それぞれですから、完全否定するわけではありませんが、「損な生き方だな~」と思います。そんな「自分」だけの視点でしか捉えられないならば、結局、周りの協力も限られたものです。色々な場で、短期的には要領よく立ち回っているため、長期的には損をして、そのことに気づいていない人を少なからず見てきました。要領よく「美味しい仕事」だけをかっさらって、「大変な仕事」をうま~く逃げる、そして口先だけは当たりがいい人っていますよね。そういう人って、本気でそれでOKだと思っているようです。でも、ちょっとの期間つきあえば、そのような人の「底」が見えます。そうなると、そういう人とのお付き合いは要領よく避けます。だって、そんな人とつきあうことは「損」ですから。

 以上の理由から、本研究室の目標を「自分の心に響き、多くの人の心に響く教育研究を通して、自らを高め、教育を改善しよう」としました。是非、皆さんの中で、この目標を基に、多層的な目標群を設定して欲しいと思います。