■ [大事なこと]追伸
正確のために追伸します。
本日の最初の議論に書いたとおり、残念ながら教師は評価をしません。甘い評価で良しとします。
ですので、テストの点数を気にするか、と言えば、正確には、それほど気にしていないと思います。でも、子どもの姿、よりは気にすると言うことです。あくまでも、「比べればまし」というレベルのことです。
■ [大事なこと]議論4
以下のトンタンさんのコメントでほぼ結論に達したと思います。
私とトンタンさんの違い
基礎的な文法や漢字の書き取りの点数の部分は高かろうと低かろうと重要ではないと「小学校教師」は思っているとトンタンさんは思われている。私は、そうは思っていません。
テストの点数が低かろうと、子どもの姿が素晴らしければ「小学校教師」や「保護者」に説得できるとトンタンさんは思っている。私は、そうは思っていません。
子どもが判断する必要はないとトンタンさんは思っている。私は、そう思っていない。
三つの内最初の二つは、『学び合い』が高度になり、周りの理解を得られたという条件ならば、私もそう思います。従って、私の主張は、あくまでも初心者向けの語りです。
しかし、最後の一つは、私はそうは思いません。そのようなことを判断することが学校教育の目的に合致するような課題を与えるべきだと思います。そして、それは子どもは出来るはずだと思います。それが出来ないのは子どもが原因ではなく、教師が原因だと思っています。
そして、以上のうち最初の二つはどうでもいいことです。本当に大事なことは考え方のレベルのことだと、私は思っています。点数を課題にするかしないかなどは、どうでもいいことだと私は思っています。理由は、先に書いたとおりです。
という風にしか、読み取れないのです。トンタンさん
『従来型の一斉指導で点数が変わる部分、そして、『学び合い』の初期段階で点数が変わる部分が50%ぐらいあるということです。それを部分と言えるのですか?それをトンタンさんが部分と言うのは結構です。しかし、トンタンさんの主張は「小学校教師」だったことをお忘れ無く。
それはかけてる時間が違います。通常文法の授業は1~2時間、漢字は「ちょっと」、そして読み取りや文章を書くは、おおむね15時間位費やします。授業時数の割合で言えば、文法は1割ちょっとにすぎません。漢字はさらにその下です。さらに文法は別の「単元」です。
そもそも、テストは点数を合算するものではありません。読み取りの100点と文法の25点は、観点別に評価するものであり、点数が同等であるとは言えません。小学校の教師だからこそ言えます。
>つまり、テストの点数より、トンタンさんの説明の方が説得力があるかということです。
私はテストではなく、子どもの姿で示した方が伝わりやすいのだと考えます。その理由は西川先生が最初に述べたとおりだからですし、私もそう思うからです。
>子どもの基準に対しては、お応えがなかったように思います。子ども「たち」が関わっているとき、「出来た/出来ない」の議論が起ったときどうするのでしょうか?
子どもをどういう基準で判断するか? ですが私の答えはそもそも判断なんてする必要ないということです。
子どもたちの「出来た・出来ない」の議論ですが、それはケースバイ・ケースだと思います。内容にもよります。「これしかない」という方法はないことでしょう。基本は子どもが納得すればどんな方法でも受け入れることでしょう。』
■ [大事なこと]手続き文化
トンタンさんへ
twoyoshiさんが書きたかったこと。そして、本日、私が最も言いたかったこと、なんだと思いますか?
出来たか、出来ないかの評価が甘いことが、現状の学校教育の姿を定めていると言うことです。
甘くしている教師に悪意はありません。でも、結果は恐ろしいものです。個々のクラスでは問題ないかもしれません。評価が甘いと、手続き文化になるのです。
もうひとつ、学校観のレベルが私の本来の考えです。
テストの点数の議論は、求められているから、詳細に答えているだけのことです。テストの点数は下らんことです。『学び合い』の考えからすれば、教科の内容に依存することですら下らんことです。私にテストの点数の価値を言わそうとしても、私は「相対的にはまし」以上のことは永遠に書きませんよ。あははは
■ [大事なこと]議論3
いや~、面白い!
>どうやら、私が点数を上げることを「目標」としていると思っているようですね。
課題ですね。でも「学び合い」をしている先生方はそれを使い分けているでしょうか?
論点がずれています。
この文章の主語は「私」ですよね。だって、データを求められているのは「私」ですから。使い分けの出来ない人も多い。でも、点数を本当の目標だなんて思ったことはありませんよ。
>そのデータに疑義を出すならば、それに相応するデータを出して議論すべきです。それなしで議論するのでは、水掛け論ですよ。
私は学者ではないので、正確な統計的分析データを持っていません。が、「やらなくても」割が100点とれるテストが「学び合い」と相関関係が見られるとは思えません。西川研のデータの詳細は分かりませんが、先に述べたように、「我々」が使っている市販のテストで、主要教科のデーターがあるならば教えてください。
私のHPで論文は公開していますよ。それに、お望みならば、それを実現している方をご紹介しますよ。
>テストの点数が上がらないのは、非常に低レベルのことが分かっていないことが大きな原因である。
それだけなら「ゆらぎ」は起こりません。なぜ「ゆらぎ」が起こるとお考えでしょうか?
それはさっき書きました。ご覧下さい。
■ [大事なこと]揺らぎ
『小学校で実践されている先生方も理科や社会科の「ゆらぎ」を感じていませんか? そしてその原因を子どものせいにしていませんか? それがダメだと言うことです。』
とトンタンさんが書かれています。
揺らぎは教科特異性に書かれているように読めるので書きます。全ての教科で揺らぎはあります。別に理科や社会科だけに揺らぎがあるわけではありません。算数・数学だって、国語だって、音楽だってあります。
さて、揺らぎの原因は何でしょうか?
以前、それを調べたことがあります。多くの先生方は、真面目にやらない子に目がいきます。だって、本当にやりませんから。でも、子細に見れば、真面目にやらない子は、いつも熱意が低いのが通例です。つまり、それほど揺らぎはありません。揺らぎが大きいのは、出来る子です。その子は常に高い達成度を実現するので、あまり差が見えにくいです。ところが、出来ない子に対しての行動の多寡を見れば大きな揺らぎがあります。
そのような出来る子が、周りの子にたいしての行動をする、しないを決めているのは何故でしょう。
統計学の初歩です。揺らぎはNのルートに比例します。例えば、統計学で良く扱われる分布の場合は、ルートNです。つまり、1固体の場合は、1の揺らぎがあります。つまりプラスマイナス100%の揺らぎがあります。ところが100固体の場合は、ルート100で10になります。つまり100にたいして10の揺らぎですのでプラスマイナス10%となります。ところが10000の場合はそれが100となります。つまりプラスマイナス1%となります。つまり、大きな揺らぎがある場合は、統計の対象数が小数であることを意味します。
さて、クラスにおいて小数であり、影響力のある人は誰でしょう。それは教師です。つまり、揺らぎの原因は子どもではありません。教師です。
追伸 議論すると、普段書かないような部分も書くな~
■ [大事なこと]議論3
トンタンさんのコメントには、『テストの点数を目標とするならば、「学び合い」とテストの相関関係を明らかにすべきです。それも全教科でです。それに分析をかけて、明らかな相関関係が見られるならば理解できます。』
どうやら、私が点数を上げることを「目標」としていると思っているようですね。あはははは
以下の議論(考え方のレベルで)のように、私は、そんなちんけなものを目標にしていませんよ。
追伸 トンタンさんが分析のことを言い出したので、一言。科学研究というのは、相対的なものです。我々はテストの点数に現れるというデータを出しています。そのデータに疑義を出すならば、それに相応するデータを出して議論すべきです。それなしで議論するのでは、水掛け論ですよ。
ちなみに、論証とはデータのみならず、それを一般化する理論に裏打ちされて意味を持ちます。
テストの点数が上がらないのは、非常に低レベルのことが分かっていないことが大きな原因である。そのレベルであれば、子どもでも十分に出来る。数十人の子ども同士が対話すれば、教師に比べて対話できる。
という、至極、シンプルな理論に基づいています。それを実証するデータもあります。
トンタンさんの根拠をお示し下さい。
■ [大事なこと]議論2
だいぶ論点がシャープになりました。
第一の質問に対してのレスですが「部分を見て全体を述べることは科学的ではないと思います。」とおっしゃいます。が、一般的な国語のテストの場合、読み取りが50%であり、基礎的文法が25%であり、漢字の書き取りが25%ぐらいだと思います。
ということは、従来型の一斉指導で点数が変わる部分、そして、『学び合い』の初期段階で点数が変わる部分が50%ぐらいあるということです。それを部分と言えるのですか?
それをトンタンさんが部分と言うのは結構です。しかし、トンタンさんの主張は「小学校教師」だったことをお忘れ無く。
第二の質問に対してのレスですが、今一度、質問します。
つまり、テストの点数より、トンタンさんの説明の方が説得力があるかということです。
もっと具体的に私の質問を表現しましょう。
テストの点数が良くて、トンタンさんの大事にしたものが成り立っているならば問題はありません。「小学校教師」がどち欠けたときに問題が起こるのは、どちらの方が多いか。それでお応え下さい。
次に、子どもの基準に対しては、お応えがなかったように思います。子ども「たち」が関わっているとき、「出来た/出来ない」の議論が起ったときどうするのでしょうか?
我々の研究によれば、子どもは教師に「これでいい?」と聞きます。結局、従来の授業に戻ります。
いや、一人一人違って良いというかもしれませんね。では、その一人一人の違って良いものが教師と違っても良いですか?
■ [大事なこと]考え方のレベルで
本日は私の誕生日で、誕生日パーティーの予定でしたが、息子が発熱(インフルエンザではありません)ということで中止です。今、息子の添い寝から復帰です。
テストの点数に関してですが、考え方のレベルでも整理したいと思います。
仏教、キリスト教、イスラム教という宗教は神と人との間の存在という意味で大きな違いがあります。
仏教における「神」は仏で、それは如来です。ところが如来と人の間には色々な存在があります。菩薩(観音菩薩や弥勒菩薩など)、明王(不動明王や金剛夜叉明王など)、天部(梵天、帝釈天など)があり、羅漢や上人、聖人などがあります。そして、それらは全て信仰の対象となっています。
ところがイスラム教ではアッラーが絶対で、それ以外は、その他大勢なのです。例えば預言者マホメッドは預言者ではありますが、人は人にすぎません。モスクの横に、マホメッドを祀った神殿があるなんてイスラム教徒には考えられません。
キリスト教はその中間当たりです。父なる神の言葉を伝えたキリストが三位一体説によって神となりました。さらに、マリヤに祈りを捧げたり、聖人に祈りを捧げると言うことはキャソリックはありえます。
良い悪いではなく、そういう多様性があるということです。
私にとって「学校は、多様な人とおりあいをつけて自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、より多くの人が自分の同僚であることを学ぶ場」という学校観は、絶対です。その中間あたりなんて考えられません。テストの点数が下らないなんて、人様から指摘される以前に、分かりすぎるほど、分かっています。しかし、教科の内容に依存するものだって、その学校観から比べたら、テストの点数と同じぐらい下らないものだと思っています。
私だって、教科の内容に依存する素晴らしいものを知っています。
高校3年間の内、2年間は蝶々を追い求めました。夏の暑い炎天下で捕虫網を持って蝶を捕って整理している日々でした。一つのことを続けると、そこから得られることは多いし、生物を多面的に見ることが出来ます。
大学の学部では生物学を専攻しているにも関わらず、独学で解析学や代数学や位相幾何学を学びました。単純な前提から、これほど豊かな世界が広がるとは知りませんでした。なによりもシンプルでピュアーな世界が広がりました。
大学の卒業研究では生物物理学を学びました。複雑でゴチャゴチャしている生物は数学や物理学では扱えないような世界でした。しかし、複雑な現象を大胆に近似し、それを数学や物理学で記載すると、複雑でゴチャゴチャした生物が記載できることが分かりました。
しかし、臨海実習でウニの卵割を三日三晩かけて連続して観察しました。その美しさは言葉には出来ません。もちろん数式にも表せません。生物は生物だと思い知らされました。
その素晴らしさを分かりつつも、一般の学校教育では下らんと思います(専門教育ではないですよ)。だって、それらのことを日本国民全員が学ぶべきだと日本国民に求めるべきではないと思っています。また、日本国民全員が分かるとは思いません。日本国民全員の大人になってからの社会生活・家庭生活に必須だとは思いません。それは学んだ方が良いし、学べば素晴らしいとは思いますが、絶対だとは思えません。
私の教師の原体験である学校で出会った子ども達は最底辺の子ども達です。小中学校で教師や同級生にいじめ抜かれた子ども達です。鬼畜と呼びたいような親を持つ子もいます。それでいながら、毎日、そこに戻らなければならない子ども達もいるのです。基礎学力は壊滅的にひどい状態です。私もそのような子たちに、教科の内容に依存するものを価値を語りました。でも、あっという間に論破されます。それも、非常に簡単な事実と、論理によってです。
結局、大学や大学院で学んだことは、その子たちに学ぶ意味を説得することには無力でした。そこで私がやったことは、面白い授業、分かりやすい授業です。でも、結局、面白いと思っている子は全員ではなく、分かりやすいと思っている子は全員ではないという現実に出会います。でも、出口が無くて、面白い授業と分かりやすい授業を追い続けるしかありませんでした。
そのトラウマが残り、それを追い求める内に『学び合い』の学校観にいたりました。一人一人、全ての子どもを分析するれば、苦しんでいるのは最底辺の子どもだけではないことが分かります。馬鹿馬鹿しいことです。自分を思い起こせば自明です。そのような子が苦しいのは、教科の内容に依存するものが分からないか、否かではありません。教科の内容に依存するものが大事だと思っている教師のクラスにおいて、それが分からないことに起因して対教師、対クラスメートで悩みます。
やがて、それを乗り越えたクラスにおいて学力が向上することが分かりました。分かってしまえば当たり前のことです。人間関係に悩まなければ、学力向上に結びつくのは、我々大人の社会生活を考えれば当然です。
やがて、学力向上は人間関係に結びつくことが分かりました。分かってしまえば当たり前のことです。仲良くする活動によって、人間関係は出来ませんです。同じ課題を達成することによって、人間関係を成立させることが出来ます。職場を思い出せば当たり前です。
そして、ホモサピエンスという種の生存競争の基本戦略を考えれば、『学び合い』の学校観であることに落ち着いたのです。『学び合い』はあまりにも予定調和的であり、できすぎです。でも、人類200万年の絶えざるトライアンドエラーの中で成立した戦略と考えれば実にすっきりします。
これが私の教師生活、研究者生活25年の歴史です。
だから、テストの点数なんて下らないと思います。そして、教科の内容に依存するものは、それに比べれば格段に素晴らしいと思います。しかし、『学び合い』の学校観に比べれば両者は同程度に「下らない」と思います。
そして、その分、「みんな」ということに拘ります。それ以外は、私にとっては誤差です。
■ [大事なこと]議論
トンタンさんからレスが来ました。ありがたい。大方の方が、どん引きなっている気配を感じつつ、再度書きます。
まず、第一の疑問にたいしての返答は論点がずれています。
私の疑問は、「小学校の先生ならば分かるように、授業をしてもしなくても国語のテストの点数は「ほぼ変わりません」それを目標にすべきでしょうか?」という主張は本当ですか?です。ただし、上記の主張は「とんたんさん」はではなく、小学校の先生一般はそうなのか?
その後の記載では、文法では指導によって点数の差があることを認めています。ということで、トンタンさんの第一の主張は事実と違うということだと思うのですが?私の疑問は、「小学校の先生ならば分かるように、授業をしてもしなくても国語のテストの点数は「ほぼ変わりません」それを目標にすべきでしょうか?」という点です。そこに焦点を当てて、ご回答下さい。
第二の主張に対するレスを短くまとめると、トンタンさんが大事にしたいことは、親や同僚に分かりやすく伝えられなくて、子どもが成り立ったと判断するハッキリとした基準はない、ということでしょうか?これまた、イエスかノーで結構です。ノーの場合は、「このようにすれば同僚に伝えられる」、「子ども達は、このような基準で判断できる」とお応え下さい。
追伸 みなさんどん引きにならなくても良いよ。トンタンさんだから安心してシャープな議論をしているんですから。
■ [大事なこと]トンタンさんの反論に応えて
点数を課題とすることに対して違和感を感じておられる方も多いと思います。トンタンさんもそのお一人です。本日のコメントに書かれた反論に対して私なりの考えを述べます。この議論は実り多いと思います。
トンタンさんの反論の趣旨は二つです。
第一は、「小学校の先生ならば分かるように、授業をしてもしなくても国語のテストの点数は「ほぼ変わりません」それを目標にすべきでしょうか?」という主張です。
第二は、「ほとんどのテストの内容は観点別にされていますが、その8割が「知識」です。指導要領の目標の到達を評価できるようなテストは1社もありません。それで「~点が目標」というのは、危険です。ならば指導要領の到達目標を子供に示した方が確かです。」という主張です。
まず、第一の主張ですが、「本当ですか?」というのが私の正直な感想です。これをお読みになっている小学校の先生にお伺いしますが、上記は本当ですか?以下で書くことが間違っているならば、教えてください。認識を新たにします。
私の知る限り、国語の点数を上げられる先生もおられる一方、上げられない先生もおられます。おそらく、読解にはあまり差がないと思います。しかし、漢字の書き取りや、基本的な文法ルールに関しては、指導によって差が生じます。そして、多くの先生方、保護者、そして子ども達は「それが国語の力」であり、「それを高められるのが国語の指導力」だと思っています。最初に言いますが、これは誤りです。国語の力や、国語の指導力は、そんなものではありません。この部分はトンタンさんの第二の主張に一致します。
さて、十歩下がって平均点の差はあまり差がないということを認めたとします。では、最低点は差がないのでしょうか?もし、それが本当だったら私にとって驚天動地です。平均点は「あまり」差がなかったとしても最低点には大きな差があります。
私への反論の反論です。
私の過去のブログ、また、手引き書を確認すれば分かることですが、課題で大事なことは学習者に分からせられることです。そして、私は点数の課題を例示しますが、あくまでも『学び合い』の初心者に対しての例示です。全ての教師がトンタンさんの求めるレベルの課題設定が出来るとは思っていません。また、『学び合い』の初期の段階で、子ども達がトンタンさんの求めるレベルの課題を理解し、それをみんなに広げられるとは思っていません。だから、初期段階で点数の課題を例示することが多いのです。それを越えた後に、とてつもない課題を設定することを禁止したことはありませんよ。あはははは
逆に、私が違和感を感じるのは、第一の主張です。『学び合い』を実践すれば最低点は目に見えてあがります。『学び合い』では最低点を重視し、平均点に拘りません。もちろん、結果的には平均点は上がりますが、それは結果的なものです。ですので、何故、あのような第一の主張を書かれたのか分かりません。
第二に、トンタンさんに教えていただきたいのは、国語の学ぶ価値を小学生に分かるように説明してください。そして、小学生でも、それが達成したかしないかを判断する基準を教えてください。
そして、テストの点数ではなく、保護者や同僚に説得する説明を教えてください。もちろん完璧な説得などはあり得ません。まずはテストの点数で説得する以上の道があれば教えてください。以上が納得できれば、点数の例示は止めます。
以上まとめると、トンタンさんへの疑問は、第一は「小学校の先生ならば分かるように、授業をしてもしなくても国語のテストの点数は「ほぼ変わりません」それを目標にすべきでしょうか?」という主張の真意はどこにあるのでしょうか?
第二は、『学び合い』の初期段階において、点数以上に授業者、学習者、保護者、同僚が納得できる「国語の価値」を、点数以上に理解し、納得できる説明(それが成り立ったか否かの判断基準)を教えてください。
これが解決できれば、多くのことを乗り越えられます。トンタンさんの応えを楽しみにしています。
■ [う~ん]本日
ついに50歳になりました。朝一番に、家内と息子におめでとうを言われました。半世紀と書けば、なんか自分が博物館にも行きそうな気になります。私が生まれた年の50年前は明治42年です。伊藤博文が暗殺された年です。今から50年後の世界はどうなっているのでしょうか?幸せな世界であって欲しい。心から願います。
■ [大事なこと]何故
多くの学校では、教師が何をするかに着目して、子どもが何をなしたかを問いません。そして、課題設定が難しいという人には、点数で課題を設定しても良いですよ、と言うと、『学び合い』は点数主義と言う人がいます。残念です。その理由を分析します。
ディールとケネディーは企業の文化を分析し、おおよそ4つのタイプに分かれることを明らかにしました。そして、その企業がどのタイプになるかは、その企業の抱えるリスクと、やったことの結果が直ぐに分かるかどうかで分けられます。
『逞しい、男っぽい文化。つねに高いリスクを負い、行動が正しかったか、間違っていたかについて速やかに結果が得られる個人主義者の世界。
よく働き/よく遊ぶ文化。陽気さと活動が支配する文化で、従業員はほとんどリスクを負わず、結果は直ぐに現れる。成功するために企業文化が社員に促すのは、比較的低リスクの活動を高レベルに維持することである。
会社をかける文化。大金のかかった意志決定の文化で、しかも、これらの意志決定から精巧に見通しが立つまでに数年かかる。高リスクで、結果がなかなか現れない環境である。
手続き文化。結果を知ることのほとんどない、あるいは全くない世界で、職員は自分たちの作業を評価することが出来ない。そのかわり、彼らは仕事の進め方に神経を集中する。これらの手続きにコントロールが効かなかったとき、私たちはこの文化を別名でよぶ。官僚主義と!』(ディール、ケネディ 1997、157-158)
具体的には、逞しい、男っぽい文化は建設、化粧品、経営コンサルティング、危険資本、公告、テレビジョン、映画、出版、スポーツなどが上げられます。これらの企業は、何かするには膨大な資金をかけなければなりません。そして、それが成功したかしないかは数ヶ月で分かり、最長でも1年以内で分かります。
よく働き/よく遊ぶ文化は不動産業者、コンピュータ会社、自動車の販売業者、など大衆が買うものを扱うが含まれます。この企業の扱うものは比較的安価であり、それが売れるか売れないかによって直ちに企業の存亡は問われません。しかし、結果は売れるか/売れないかであり、直ちに分かります。
会社をかける文化は、石油探索をする石油会社、新型機を開発する飛行機会社、スペースシャトル計画を進めるNASAなどがあります。この企業は、何かするには膨大な資金をかけなければなりません。そして、それが成功するかしないかがハッキリするには数年はかかります。
手続きの文化は銀行、保険会社、金融機関、政府の大部分、電力会社のように、高度の規制を受け、逆に守られている企業です。この企業ではリスクを負いません。そして結果を知ることはほとんどありません。
『職員は何をするかではなく、与えられた仕事をどのようにするかに注意を集中するしかない。彼らはその組織内の世界のさまざまな要素を、意味もないのに結びつけたりし、些細なこと“ある種の電話、とるに足らない書類、あるいは課長の最近のメモなど”を大げさに扱う。これらの文化に属する人たちは「失敗をとりつくろう」ことに腐心するようになる。ごく些細なことがメモの題材となる。彼らは事態を詳細に記述し、自分たちの行動をもっともらしく説明して、それを配布する。メモを受けとった人たちは、自分が何か過ちを犯したとは認めたくない。そこで返事を書くのだが、それがしばしば、もとのメモと同じぐらい詳しい。これはみなファイルされる。五年後に誰かがこの事件のことを持ち出しても、自分は過ちを犯さなかったと証明できるようにしておくのである。
この文化の中心的な価値は技術的な完璧さ“リスクを計算して、科学の域に達した解答をびったりと出すこと”である。言い換えれば、手続きと細部の正しさなのである。』(ディール、ケネディ 1997、177)
このように書けば、学校が手続き文化であることは明白である。しかし、手続き文化が悪いばかりとは言えません。『銀行や保険会社、あるいは政府機関が、時世の変化や流行にいちいち反応したら、私たちはみな困るだろう。自動車の運転免許を取るためのテストに毎年大きな変更があったとしたらどうなんるだろう?あるいは所得税の納入手続きが変わったら?そしてに、よく働き/よく遊ぶタイプの人に、自分の当座預金口座を任せたい人がいるだろうか?』(ディール、ケネディ 1997、177-178)
このような手続き文化にある学校においては、最終的結果は何であるかを意識することは希です。例えば、学力であるが、それで評価されることはほとんどありません。全国学力調査で学校別のテストの点数が公表されるということになったときの教育関係者の反応は象徴的です。その是非はともかくとしても、今まで学力が評価の対象となっていなかったことを端的に表しています。テストの点数に評価の対象となりうるものがあり得るでしょうか?おそらく無いだろう。
非常に言いにくいことだけど、ハッキリと言えば、今の学校は子どもの学力を保証したいと願ってはいません。子どもが居心地が良い環境を保証したいとは願ってはいません。願っていればシビアになるし、評価したいと願います。しかし、それが甘いから、子ども学力は何か、子どもの居心地が良い環境とは何かを評価しようとはしていません。その代わりに、誰からも文句を言われないようにするための膨大な書類づくりにエネルギーを費やします。そして、子どもがどうなったかではなく、教師がどうやったかに着目します。では、何故そうなっているか?
それは、一人一人の子どもの人生を、「よく働き/よく遊ぶ文化」の企業で扱っているような大衆が売り買いするようなレベルの商品と同じ価値しかないと思っているのです。また、「教育の結果は直ぐには分からない」という言葉を用いて、結果がフィードバックすることを拒否します。実は、これも子どもの人生を軽く見ているからです。
一人一人の教師の善意を疑いません。数多くの職業から教師を選んだのですから、そこには子どもの人生の価値を認めたはずです。ところが、教師人生の中で、それを無視するように条件付けられてしまった。気持ちは分かります。解決できない問題に直面しつづければ、自分の心を病む。合理化し、人生の問題ではなく、漢字の書き取りの正確さや計算の速さに価値を教育の価値であると考えるようになったのだと思います。
クラスの8割程度の学力の保証、居心地の良いクラスレベルだったら、『学び合い』でなくても可能かも知れません(かなり難しいですが)。しかし、最後まで残る数人にも人生があることを忘れたくない。それを満たせなかったときの罪の重さに恐れます。そして、満たしていると思っている8割の子ども達も子細に見れば、不安を抱えていたり、もっと高い学力保証があることを知れば、もっと恐ろしくなります。
テクニックは伝えやすい。しかし、本当に伝えたいのは、この恐れです。その恐れが分かれば、『学び合い』の学校観・子ども観がどれほど大事かが分かります。そうすれば、ご当人が『学び合い』をしようとしているか否かに関わらず、結局、『学び合い』をしていることになるのです。それをどうしたら伝えられるのか悩みます。