■ [大事なこと]考え方とテクニック
私は『学び合い』は考え方であってテクニックではない、と主張しています。でも、これは従来型の指導だって同じです。子どもはテクニックで動くのではなく、教師の「腹」を観て動くのです。子どもを己に、校長を自分に置き換えれば理の当然です。
でも、現実問題として教師は何らかの意図的な行動をしています。そこにはテクニックもあります。問題を乗り越えるためのテクニックを探す気持ちは分かります。でも、乗り越えた後に気付きます。問題が起こったのは、そのテクニックがなかったからではなく、自分の考えにぶれがあったことと。テクニックがあると安心して、心の余裕を持てるというのが、テクニックの最大の利点です。まあ、心理学の偽薬効果みたいなものです。
あるテクニックが有効である、と主張される方がいたとします。その場合、私は「誰にとって有効ですか?クラスには東大に行きそうな子もいますし、能力的に辛い子もいます。男もいますし、女もいます。サッカーの好きな子もいますし、そうでない子もいます。だれにですか?」と聞きます。どうもテクニックが有効だと思われる方は、子どもを十把一絡げにしてしまっている。
だから『学び合い』では個に拘らず、個を見捨てない集団づくりに拘ります。だから「みんなが分かる、とか、みんなが面白いと思う」を目指すのではなく、「みんなが分かる、とか、みんなが面白いと思うものをみんなが目指す」を目指すのです。そのために『学び合い』の可視化のテクニックがあります。でも、あれもテクニックにすぎません、3ヶ月もやるなんておかしい。それが継続しているとしたら、『学び合い』(?)という従来型の従来型の授業をしているにすぎません。
まあテクニックにすがる気持ちを否定することもできません。精神衛生上には効果は絶大ですから。でも、そのテクニックを『学び合い』の学校観と子ども観でぎりぎりまで吟味して下さい。その結果として、今の現状ではそれを使用するということが必要だと判断されるならば、それは正しい判断だと思います。でも、それを使用する原因は自分にあることに気付いて欲しい。
何度も書いているように、教師の職能の第一は、「子どもや保護者が悪いという合理化をしない」ということです。「私のクラスの子どもの発達段階は・・」、「地域性があって・・・」、「うちのクラスの子どもは能力が低くって・・・」というのも、表現は違い同根です。だって、その後に続く言葉は大抵は「だから、しょうがない」です。それでは改善はない。そして、その後にすることは、根治療法ではなく対処療法です。その効果は治すことではなく、問題を先送りしたり、問題を見えにくくする以上の効果は期待できません。
じゃあ出来るの?を突っ込みたい気持ちの方もおられるでしょう。それに対しては「分かりません」です。でも、問題を解決したいならば、どちらの方が有効かといえば、明らかにです。対処療法も必要ですが、根治療法を併用しなければ、しょうがありません。
暴走族の子だって、エリート街道まっしぐらの子だって、皮一枚はがせば子どもは子どもです。そして、我々と同じホモサピエンスです。さらに、一人一人の揺らぎが大きくても、集団の揺らぎは小さくなるのは大数の法則です。クラス集団の揺らぎは小さいはず。
小学生に偏微分方程式を教えるとしたら、子ども集団は愚かです。しかし、指導要領に従ったレベルのことだったら、子ども集団の能力は教師を凌駕します。だって、どの子にも1日二十四時間という時間を持っています。子どもの数十倍効率の良い教え方が出来る人っているのでしょうか?
上記は、本日、我がゼミで私に「小学生の子どもは基本的な能力がない(例えば単語力)」と言った方への公開返信です。まあ、上記を言われるだろう事は折り込みでしょうが。
簡単に言えば、気持ちは分かるし、テクニックを併用してもかまわない。でも、考え方に立ち戻ってもがかない限りは、出口はないよ。ということです。ふぉふぉふぉ