■ [お願い]みんなで
みんなで、色々な方法をトライしましょう。
みんなでね。
http://manabiai.g.hatena.ne.jp/a-peanut/?word=*[%E3%80%8E%E5%AD%A6%E3%81%B3%E5%90%88%E3%81%84%E3%80%8F%E7%B4%B9%E4%BB%8B%E6%89%80]
■ [大事なこと]異質
異質であるほどえるものが多い、と私は主張します。これに関して、正確に書かねばなりませんが、とりあえず、ちょっと書きます。
「異質であるほどえるものが多い」という言明には前提があります。それは、基本的に同じ方向を向いていることです。もしくは、共通する目的がある場合です。それらがない場合は、異質であるほど、得るものは少ないです。ちなみに、より多くの人と、共通する方向性をえるものが「多様な人とおりあいをつけて自らの課題を達成する」というものなのです。
たいていの場合は対話は重要です。対話がないと、どんどん、相手を悪意で解釈してしまいます。ところが、一度、腹を割って話すと、「な~んだ」ということは良くあることです。でも、本気になって腹を割って話したら、「本当にこいつは嫌なやつだ」と確信することがあります。それは個々の問題解決の方法のレベルの違いではなく、何を達成したいかという目的のレベルの違いがある場合に起こります。
だから、私の場合、腹を割って話す場合の安全策があります。それは人に聞くことです。私は教員なので、一番確かなのは子どもに聞くことです。子どもに「あの先生は良い先生?」というもの凄く漠然とした質問をします。おそらく子どもは多様に、かつ、総合的に判断するでしょう。多くの子どもに聞けば、一定の評価を得ることが出来ます。
細かい人もいます。頑固な人もいます(まあ、私もそうです)。愚かな人もいます。でも、子ども達は、自分のために何かを成そうと思っている人は、正しく評価します。まあ、心理テストよりは正確です。だって、人間以上の測定器を私は知りません。
で、私は「あの先生は良い先生?」と聞いたとき、そうである先生とは、個々の方法論でぶつかっても腹を割って話せます。だって、方法論は違っても、子どものためを願っているというレベルでは一致していますから。
同志各位にお勧めです。子どもに聞きましょう。
■ [大事なこと]凄く大事なこと
私は『学び合い』は考え方だと主張します。でも、それが理解されることは、非常に困難です。
私はありとあらゆる方から質問や議論や論争を受けます。しかし、その99%以上は、方法レベルです。方法レベルの質問を受ければ、方法レベルで応えます。しかし、本当は考え方のレベルで議論が出来れば、もっと簡単に結論を出せます。方法のレベルで議論すれば、「この場合は、どうなるのか?」、「でも、こうだったら、どうなるのか?」という風になり、重箱の隅をつつくような議論に陥る危険性があります。が、方法からしか考え方は理解されないかも知れないと思い、方法のレベルで応えます。(そういう同志も多いですよね)
でも、考え方のレベルの説明もしなくてはと思いました。
『学び合い』では、「学校は、多様な人とおりあいをつけて自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、より多くの人が自分の同僚であることを学ぶ場」という学校観の上に立っています。でも、この言葉の奥の深さをどれだけ理解できるかが勝負なんです。
簡単な理屈です。どんな教育でも、学習者が本気になって学ぼうとしなければ学習は成立しません。当たり前ですよね。テレビ番組の面白実験ショーのようにすれば、面白くは出来ます。でも、それは実験を演示する人が主体者で、それを見る人は受動者です。それではたかが知れている。そんなことでは本気に学ぼうとは出来ません!
私の25年間の結論は、「学校は、多様な人とおりあいをつけて自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、より多くの人が自分の同僚であることを学ぶ場」を学習者集団に語り続けること以上に学習者集団「全員」が本気に学ぼうとさせる道は無いと断言できます。
学習者集団の一部を本気に学ばせようとするならば他の道もあります。「俺についてくれば東大に合格させる!」というカリスマ予備校教師も、「俺は腕一本で生きていくんだ、勉強なんてどうでもいい」という子どもを引きつける力はありません。テレビドラマの熱血教師、また、教師のあるべき姿として認められている教師のように、「どんなに子どもに裏切られても、信じ続け、全ての時間を費やして救い続ける」教師も、救えるのは数人程度でしょう。だって、一人の人間を救うのにどれほどの時間がかかると思いますか?どんな人間も24時間しかありません。それで割り算すれば、当たり前の結論です。テレビドラマや自伝の世界だったら、その数人のことを詳細に語れば良いだけです。でも、その教師のクラスには、そこの書かれなかった多くの子どもがいたはずです。例えば、金八先生(お~古い・・)のクラスの中で、名前を知っている生徒はどれだけいませすか?1年間の連載で、一度も主人公にならなかった子どもはいたはずです。でも、その子どもにとっては、自分は主人公なんです。
もし、学習者集団の全員を本気に学ばせようとする道が、「学校は、多様な人とおりあいをつけて自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、より多くの人が自分の同僚であることを学ぶ場」以外にあるならば、その瞬間に私は頭を下げます。でも、どう考えてもありません。(あると思われる方がいたら、是非、議論しましょう。学びたいと思います)
もし、「学校は、多様な人とおりあいをつけて自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、より多くの人が自分の同僚であることを学ぶ場」が正しいとしたならば、あとは簡単な理屈です。折り合いをつけることを学ぶためには、学校にいる時間の殆どを折り合いをつける時間とすべきです(当たり前ですよね)。そうであれば、教師がゴチャゴチャしきる時間を削らなければなりません(当たり前ですよね)。そうであれば、子どもが問題が解けようが解けまいか、そんな次元の話ではありません。
まず、学校教育の目的は何かを押さえて欲しい、そして、学習者はどんな存在かを教えて欲しい、そして、自分がスパーマンでもないし聖人君主でもないことを認めて欲しい。そのレベルの議論をしたいと願います。
追伸 幸い、『学び合い』の考え方は、あらゆる面で完璧に近いものです。理由は簡単です。人類が数百万年、洗練し続けた戦略だからです。たかが十年、百年程度の姑息な戦略に負けるわけありません。
http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20090413/1239582257
■ [大事なこと]良くある質問1
同志が、あるかたから質問を受けたそうです(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/takami_swc/20091011)。長くなるので、こちらに書くことにしました。質問は、『最後に残ったすごくできない子への対応とその周りの子どもたちの動きでした。みんなができることを語り続けることで,子どもたちは最後の一人を何とかしようとする。でも一人に関われる子は,せいぜい5人。残り30人近くの子は何をすべきか,その子たちに何を働きかけるべきなの?その子たちには,発展的な課題を与えてもいいのでは?』というものです。
これは導入段階の中盤以降に起こりがちなことです。まあ、「クラスの中に極端に出来ない子どもがいるときに起こる」と思いがちなのですが、実は、『学び合い』の初期の型に拘っているのが原因です。
おそらく、そのような事が起こるのクラスでは、出来る子が自分が課題を解けてから教えるということが起こっています。そのため、開始15分ぐらいは立ち歩きの少ない比較的静かな状態だと思います。そのような状態では、すごく出来ない子は15分以上、教師からも同級生からも援助を受けられない状態です。しかし、そのような場面でも、発展的な課題を与えるのではなく、「どうやったら全員が達成できるかを考えなさい」と求め続けるのです。そうすると、そのクラスの賢い子、特別に優しい子が、自分の課題を終わる前にサポートするという行動をします。自分の課題とその子の課題を平行して進めるのです。具体的には、自分の課題は一時中断して、とりあえず5分間程度、その子が課題に向かえるような説明をその子に与えて、その子がそれをやっている間に自分の課題を進めるのです。まあ、複式学級の「わたり」みたいなものをやり始めます。これによって、出来ない子が課題に向かう時間が二十分程度が三十五分程度にまで増加することが出来ます。これでかなりの改善が見られます。
それでも出来ないならば、課題を毎日、毎日、与えるのではなく、1単元分与えるのです。毎日、毎日の改題が時間ぴったりになるというよりも、まとめて帳尻を合わせるほうが楽に決まっています。
でも、もっとも大事なことは、クラス全員が全員の課題達成を本気に願うことが大事です。考えてみてください。私は『学び合い』が成立すれば成績が上がると豪語します。はては、知的に障害があると言われている子を含むクラスにおいて、クラス平均が100点を実現できると豪語しています。まあ、常識のある人だったら、「馬鹿な!」と思うでしょうね。でも、手品には種があります。ごく簡単な種です。それは、クラスのみんなが家に帰って予習復習をするからです。出来ない子が予習復習するだけではありません。出来る子が教師のように教材研究をして、どのように説明すれば分かってくれるかを予習復習するのです。そして、その文化がクラス全員に広がれば、「最後に残ったすごくできない子」が周りの子どもと協力して、予習復習するのです。
ね、簡単な「種」でしょ。でも、簡単ですが、それを実現するには、教師の腹が据わっていなければなりません。なお、発展的な課題を与えることの危険性は「『学び合い』の手引き書の第7章5節に書いてあります。第一、発展的な課題を用意することは大変であることは、やった人だったらご存じのことですよね。続けられないことは、やらない方が良いと私は思います。あははは
■ [大事なこと]良くある質問2
もう一つの質問は『『学び合い』では,課題の設定が非常に大切になってくる。的確な課題が与えられてこそ初めて子どもは活動することができる。そのような的確な課題を与えられる力は,そう簡単につくものではない。学卒の新人がいきなり取り組んだら,それこそ学級崩壊するのではないか?一斉授業の酸いも辛いも経験してきた人でないと『学び合い』の実践は難しいのでは?その点で,授業は『学び合い』だけでは解決できないのではないか?』です。
この場合は、「一斉授業→『学び合い』」という図式です。たしかに現状は一斉指導が大多数ですのでそういう場合が多いですが、「『学び合い』→一斉指導」ということも同様にあり得ます。つまり、以下のように表現できます。あはははは
『一斉指導では,課題の設定が非常に大切になってくる。的確な課題が与えられてこそ初めて子どもは活動することができる。そのような的確な課題を与えられる力は,そう簡単につくものではない。学卒の新人がいきなり取り組んだら,それこそ学級崩壊するのではないか?『学び合い』の酸いも辛いも経験してきた人でないと一斉指導の実践は難しいのでは?その点で,授業は一斉指導だけでは解決できないのではないか?』
考えてください。『学び合い』であろうと、一斉指導(従来指導型とでもいう意味です)であろうと、課題設定が大事であることは当然のことです。でしょ?
第一に、一斉指導の場合は、『学び合い』以上に初任者には出来ないことを求めているのです。それは、東大に行くかもしれない子と知的に障害がある子が共存しているクラスにおいて、それらの大多数の子どもに分かる説明が出来て、興味関心を引き出せる力が必要です。ところが、『学び合い』は子ども達に「折り合いをつけて解決せよ」と求めるだけで良いのです。どちらが簡単でしょうか?
何度も書きましたが、一斉指導が『学び合い』より優れているところ(?)は、第一にクラスの問題を見えづらくすることが出来るところです。結果として、見栄えは良くなるし、教師の罪悪感を刺激しない。しかし、問題の解決を先送りして、重篤にしてしまうという危険性があります。まあ、先送りして、最後まで爆発しなかったらハッピーエンドというならば、ハッピーエンドですが。
第二は、周りの教師が同じようなことをやっているために助力を得やすい。これは確かにあるな、と思います。
第三は、周りの教師が同じようなことをやっているために、失敗しても追求されない。情けない理由ですが、大事なことだと思います。
さて、最後に最も重要なアドバイスです。二つの質問とも、「漢字の書き取りを正確に出来る」とか、「計算が速くできるとか」という教科の内容に関連するものです。もっと上の次元で考える必要があります。つまり、子ども達は何のために学校教育を受けているかという考えをしっかりと定めましょう。その上で、二つのことに関して、どのように考え、行動するべきかを考えましょう。そうすれば、別な道が見えるはずです。
学校教育の目的なんて建前論で、毎日の教科指導には関係ない、というのが多くの先生方の本音だと思います。でも、『学び合い』は違います。それが根本であると考えています。
■ [親ばか]ポイント
昨日から今日、新潟県六日町のよくいく温泉宿に泊まりました。大満足です。さて、そのチェックインは3時からなのですが、1時頃には到着します。そうなると2時間ほど閑です。どうしようかと考えました。天地人の直江兼嗣が生まれ育った地です。ゆかりの場所は色々とあります。しかし、息子が行きたがるとは思いません。そこで、「どこに行きたい?」と聞きました。息子は間髪入れず、「○○書店」と言いました。私は忘れましたが、前回、六日町で時間を潰すために入った町の小さい本屋です。なんで?と聞くと、そこでは本に立ち読み防止用のカバーがかかっていなかったそうです。そのため、色々な本、特に、お目当てはゲームの校略本を読めたという経験があったそうです。
ということで、息子にとっての六日町の代表的なスポットは、「仙洞院」や「坂戸城」ではなく、「○○書店」です。