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2009-10-12

[]質問に応えて 21:58 質問に応えて - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 質問に応えて - 西川純のメモ 質問に応えて - 西川純のメモ のブックマークコメント

 同志から「お忙しいところ,大変申し訳ないのですが,いくつかの疑問に対して,西川先生の見解を教えてくださいませんでしょうか。ブログのここに書いてあるという形でもかまいません。」という質問を受けました。

 何度も書いていることですが、改めて書きます。

A 『学び合い』の考え方と,グループ学習や「学びの共同体」との違いは?

 子ども達が関わる教育というのは山ほどあります。おそらく、大きな書店であれば、本棚一つや二つ分はあります。それらとの違いは学校観と子ども観にあります。

 圧倒的大多数は学校教育の目的として捉えているのではなく、手段として捉えています。例えば、効率の良い授業として、子ども同士の教えあいを活用しようとするものがあります。また、人間関係づくりの一貫として活用しているものがあります。また、話し方や効き方を学ぶための手段として捉えています。(残念ながら、この種の誤解は『学び合い』にもあります。ですので、私は頑固に、それは『学び合い』ではない、と主張します)そこでは教育の一部しか担っていません。そのため、そのような活動は学校の時間のごく限られた時間のみになります。

 しかし、ごく少数ですが、我々の学校観と極めて似た考え方に基づく教育もあります。しかし、それであっても、子ども達を有能とは考えていない点では、他と同じです。結果として、色々な手だてが必要だと考えます。(『学び合い』では、良い課題があると思う誤解はあります。良い課題はありますが、指導要領を理解するレベルだったら、そのようなものは不要です。むしろ、良い課題を考えようとすることによって、子ども達の活動を阻害するデメリットの方が大きいのです。)

 そのため、ありとあらゆるテクニックを駆使します。それによるデメリットが生じます。第一に、そんな大変なことを続けられません。結果として、定常的に出来なくなります。第二に、あくまでも教師のテクニックによって子どもは動いているので、教師の力量にその正否が大きく依存します。しかし、多くの教師はスーパーマンではありません。そして、家に帰れば、待っている家族がいる、普通の人です。その人の生活を冒します。第三に、どんなテクニックであっても、それに合わない子どもがいるのに、その子にも強いるという問題が生じます。

 つまり、学校教育は何のためにあるのかという考えと、子どもはどんな存在であるのかという考えに違いがあり、それから派生する様々な違い生じます。

 おそらく、『学び合い』に最も近いものはモンテッソーリ教育やシュタイナー教育のように幼児教育の考え方に最も近いと思います。両者とも、子どもを大人にしたいという強い願いがあります。だから『学び合い』に近いと思います。ところが小学校以降となると教科の色合いが強くなり、何のために学校教育は何のためにあるのかが、いつのまにか漢字の書き順や、二桁の足し算を学ぶことに置き換えられてしまうために歪んでしまいます。実は、大人になることこそが学校教育の目的です。そして、大人になることによって、漢字の書き順も二桁の足し算も学ぶことができます。

 我々が教師になろうとした原点に立ち戻って欲しいと思います。漢字の書き順も二桁の足し算を教えたくて教師になった人はいないと思います。我々は子どもを大人にすることを願っていたはずです。『学び合い』はそれを学校にいる間中、常に実現できる道です。そこが違います。

B やはり教師が最善の教え手であるべきではないか?

 おそらく、個々の子どもとの比較であれば、教師は子どもよりも良い教えてである場合が多いと思います。だから、クラスの中の過半数を教えるというレベルだったならば、教師が最善の教えてであっても良いのかも知れません。でも、我々の仕事は、クラス全員を大人にすることが仕事です。

 出来ない子が支援を求めていることは分かりやすいですよね。その子が一人や二人だったら教師が頑張れば教えられるかも知れません。でも、そのような子が四人、五人だったら教えられそうにないですね。また、勉強の出来る子だって支援を求めています。だって、そのような子は塾や予備校や通信教育で、あなたが教えているところを終わっているのです。ためしに、教える前に業者テストをやってみて下さい。かなりの点数を取れる子どもがいるはずです。そのような子は、授業中は満足しているでしょうか?思い出して下さい、自分にとってわかりきったことの伝達のために、職員一律に黙って座って聞くことがいかに苦痛か。そして、あなたにとって手のかからない子も教師の支援を求めています。私の場合、最後まで年賀状を送り続けてくれる子は、特別手のかかった子どもでも、特別に優秀な子どもありませんでした。あまり印象のない子どもでした。

 さて、そのような数十人の子ども達全員に支援することが、一人の教師に出来るでしょうか?無理です。1校時を人数分で割って下さい。何も出来ないことは当然です。しかし、教師には凄いことが出来ます。それは、クラスみんなを最善の教え手になる集団づくりが出来ます。そこが教師の仕事だと我々は考えます。

 医者の仕事は、病気を治すことです。注射を打つことでも、聴診器で心音を聴くことではありません。それらは病気を治すための手段にすぎません。もし、病気を治すためにそれらよりも有効な道があるならば、それを選ぶべきです。教師の仕事は、子ども全員に指導要領で規定されている内容を学ばせることです。そして、子ども全員に居心地の良い環境を保証することです。そして何よりも子ども全員を大人にすることが仕事です。板書すること、発問することが教師の仕事ではありません。

 子どもにとっての教師は、皆さんにとっての校長と同じ関係です。校長先生から、授業のやり方を懇切丁寧に教えて欲しいですか?おそらく違いますよね。皆さんが求めているのは、職員集団が凝縮できるような目標を与えて、それをしっかり評価して欲しいと願っているのではないでしょうか?子どもも同じです。

 もう一つあります。例えばです。小中高大の先生の中で、最もちんぷんかんぷんの話をしたのは誰でしょう。おそらく、大学の先生だと思います。では、小中高大の先生の中で、そのことに関して最も分かっていて、知っているのは誰でしょう。おそらく大学の先生だと思います。だって、それで飯を食っているのですから。では、何故、大学の先生の授業が難しいのでしょうか?我々は知っているほど、分かっているほど、上手く教えられると考えています。教員養成も教員再教育も、それを前提としてプログラムされています。しかし、心理学的に言って、それは誤りです。あまりにも両者の認知的ギャップが大きいと情報は伝わらないのです。例えば、あなたが「何でこんな簡単なことが出来ないの!」と思う子どもにとって、教師は最善の教え手ではありません。むしろ、つい最近までそのこと同じように間違って、ちょっと分かってきた子どもの方が「その子」にとって良い教え手になれるのです。

C 子どもが有能であるということが信じられない

 そういうことを書いたとき、特定の子ども達を思い浮かべていましたね。確かに、子どもの中には、かなり愚かで、かなり問題のあると思われる子どもはいますね。そうです。その通りです。でも、それとは逆に、かなり優秀で、よい子と思われる子どももいますよね。その子が中心となって、集団が作り上がり課題に取り組んだら、かなりのことが出来るのではないでしょうか?

 今の状態では、前者の子どもをなんとかしようとしてヘトヘトになっていると思います。でも、後者の子どもが教師の視点で動き始めたらかなりのことが出来るはずです。少なくとも、教師が一人で何でもしなければと思うよりは、かなり楽になるはずです。我々が子どもが有能である、と主張するとき、それは子ども達が有能であるということです。

D 学力低位の子に分からせるにはどうするか?

 分かりません。分かるわけありません。だって、学力低位の子と言ったって、一人一人、その原因は違います。何を好み、何を嫌うかも違います。学力低位の子というように、十把一絡げでまとめることは出来ないと思います。結局、一人一人と徹底的に対話し、様々なことをやるしかないのです。教師には出来ません。でも、三十人の子ども全員が教師となればそれが出来ます。

E 学力が低位なために,やる気の起きない子

 学力が低位なために、やる気の起きない子だったら、学力を高めれば良いだけのことです。しかし、実際の場合、百人のやる気のない子どもがいれば、百通りの理由があります。結局、一人一人と徹底的に対話し、様々なことをやるしかないのです。教師には出来ません。でも、三十人の子ども全員が教師となればそれが出来ます。

F 『学び合い』が成立する以前に学級経営ができていないのをどうすればいいか?

G 教師と子どもの人間関係ができていないとできないのではないか?

H 学習規律ができていないといけないのでは?

 これはいずれも同じです。では、今までのやり方で、学級経営が出来ていたのですか?人間関係が出来ていたのですか?学習規律が出来ていたのですか?

 出来ていたのならば、問題なく『学び合い』が出来るのですから、いいですよね?でも、この質問が出たのは、それがかなり難しいと実感されているのではないでしょうか?しかし、それらが難しいのは当然です。一人の教師の力で、それを成り立たせることはかなり困難です。もちろん、子ども達を隷属し、学級の中にある問題を教師の目の前には表出しないようにすることは可能かも知れません。しかし、そうなると帰って陰湿な問題になる可能性は高くなります。

 『学び合い』ではみんなの力で、学級経営をしますので、教師一人でやるよりは高い成果を期待できます。

I やっていない子を「叱らない」ということが難しい

 やっていない、ということを「その子」の問題だと考えてしまうと、それを叱らないというのは困難かも知れません。しかし、本当は「その子」がやっていないことを黙認している周りの問題なのです。そのように考え、集団を叱る方にエネルギーを費やす方が生産的です。だって、やっていない子を叱って、改善されるのですか?改善しませんよね?しかし、集団の問題だと考え叱ると、それを理解できる子どももいます。その子が、「ねえやろうよ」と言った方が、教師が叱るより効果があるとは思いませんか?

J 「みんなができる」を求めるが,なかなか全員達成できない

K 「教えてあげる」と「教えてもらう」の関係性ができてしまう

 いずれも、教師の心の問題です。教師がみんなが出来ることを求めていながら、心の中で「あの子は駄目だろうな~」と思っていると、賢い子がそれを見抜いてしまいます。そして、その子を教えることに関して手を抜いてしまいます。

 教師の心の中で「教えてあげる=偉い、教えてもらう=駄目」という心があると、クラスのみんなが見抜いてしまいます。そうなると教える側が尊大になり、教えてもらう側が卑屈になります。

 是非、上記をふまえて、自分の心を見直して下さい。その心はありとあらゆる言動ににじみ出ます。ホモサピエンスは、その言動を元に、腹を探ることをDNAの中に組み込んだ生物です。