お問い合わせ  お問い合わせがありましたら、内容を明記し電子メールにてお問い合わせ下さい。メールアドレスは、junとiamjun.comを「@」で繋げて下さい(スパムメール対策です)。もし、送れない場合はhttp://bit.ly/sAj4IIを参照下さい。             

2009-10-17

[]香り 09:47 香り - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 香り - 西川純のメモ 香り - 西川純のメモ のブックマークコメント

 上越市のS小学校の教師(今は新潟市)で、私が直伝したKさんがいます。あるとき体育館をふら~っと見てみるとKさんが体育の授業をしていました。一斉指導です。見ていていました。

 しばらくして、私が見ていることに気付かれました。一斉指導をしているところを私に見られたので、相当焦られていました。そして、一生懸命に言い訳をされていました。

 しかし、「先生は『学び合い』をしていないと思っているようですが、『学び合い』をしていますよ」と申しました。どうやらK先生は、「教科書○ページから○ページを全員が解けて、説明できるようになること。さあどうぞ」というのが『学び合い』だと思われているようでした。しかし、Kさんは自分の子ども達の集団としての能力を信頼しています。だから、一応、最初の指導をやっているのですが、全員が分かるように長々と説明はしていません。クラスの何割かの子どもが分かれば、あとは何とかするだろうと思っているので指導は短めで、かなり省略している部分があります。そして、子ども達に活動の時間を十分に与えようとしています。

 私は授業を見ているとき、教師が子どもをどのように考えているかを見ようとしています。子ども達集団に対する信頼を香りとして感じます。また、休み時間の子ども達の動きを見れば、その先生が学校教育をどのように捉えているかが分かります。それを香りとして感じます。

 『学び合い』は考え方です。一斉指導をしている先生の中にも、同じ香りを共有できる方は多いと思います。だって、『学び合い』の考え方は、ごくごく普通のことなのですから。

[]自分で考える力 08:16 自分で考える力 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 自分で考える力 - 西川純のメモ 自分で考える力 - 西川純のメモ のブックマークコメント

同志のブログ(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/aki-kichi/20091016)に

 『学び合い』なんて,分からないとすぐ人に聞きに行くから,自分で考える力がつかないよね。『学び合い』をしている子どもたちは,人の話を静かに聞くことができなくなっちゃうよ。

そんな話をしていた人達がいたと,小耳に挟みました。

 とありました。それを寝ている内にムカムカして思い出し、寝付けなかったのでメモります。まあ、「座りなさいを言わない授業」に書いたことですが。

 もし、「このクラスの田中君のおばあさんの旧姓を発見して下さい。相談してはいけません。」という課題を出されたら、どうするでしょうか?それを発見する手がかりは全くありません。その場合、我々はどうするでしょうか?当然考えません。そして、「自分で考える力」はつきません。

 では、田中君は考えるでしょうか?考えません。答えを知っているのですから。従って、「自分で考える力」はつきません。

 そして、田中君のおばあさんがお盆の時に、どの家に行くかを見たことがある子がいたとします。その子は、自分で考えれば発見できるかも知れません。でも、自分で発見しようと思わなければ、考えません。そして、「自分で考える力」はつきません。

 残念ながら、現状の教育では情報遮断によって自分で考える力をつけようとしています。馬鹿馬鹿しいと思います。数学者や物理学者、そして、ありとあらゆる考える力で飯を食っている人にそのようなことを求めたら、拒否するでしょう。新たなものを生み出す力は、ありとあらゆる情報を得ることから出発します。情報遮断によって得られるとしたら、自分で考える力ではなく、自分で思い出す力程度です。

 自分で考える力を育成するためのポイントは、「自分で考えたい!」と思わせることです。そのためには、「自分で考えたい!」というクラス文化を育成することです。

 先の事例で考えましょう。「その手がかりを持っていない子ども」はその手がかりを持っている子どもに聞くでしょう。もし、自分で考えることの価値を共有しているクラスならば、その子に答えを教えません。その代わりに、ヒントを与えます。そして、その子の反応を元にして、どのあたりで自分で考えられるかを判断し、それ以上は教えません。もし、その子が自分で考えたいと思っておらず、「答えを教えて」と言ったならば、「自分で考えなきゃ駄目だよ」と諭すでしょう。おそらく、教師が諭すより効果があるはずです。これは、手がかりがあるが、自分で発見しようとしない子どもに対しての対応と同じです。

 そして田中君は色々な人にヒントを出す過程で、おばあちゃんの情報をあらゆる角度で吟味するはずです。聞きに来る友達の知識背景を元に、どの情報がヒントになるかを考えるからです。

 当たり前のことです。「あることをさせるために、そうせざるを得ない状況に追い込む」のは犬猫の調教みたいなものです。人間に対しては、「あることをさせるために、そうしたくなるようにならざるを得ない状況に追い込む」のが『学び合い』です。その状況とは、凝縮力のある集団を形成し、その集団の価値観とするのです。もし、人間に「あることをさせるために、そうせざるを得ない状況に追い込む」としたら、それは奴隷の調教みたいなものです。

 どうして、民主国家において奴隷がいるのか、私には理解できません。