■ [大事なこと]大義は我にあり
私は同志のブログコメントに「大義は我にあり」と書くことがあります。
ふと、そのことを書きたくなりました。以下は教師の同志に対してです。
『学び合い』はトータルです。学力も上がります。人間関係も良くなります。特別支援も良くなります。そして、教師に余裕が生まれます。
でも、それの実現に苦しんでいる同志もいるでしょう。そうなれば、学力を上げるならば別な道があっていい。人間関係を良くするならば、別な道があっていい。特別支援ならば別な道があっていい。教師が余裕が生まれるならば別な道があっていい。と思うでしょうね。
しかし、『学び合い』にしか出来ないことがあります。
それは目の前にいる子どもの一人も見捨てず、大人にするという実感を毎日感じることです。何人かはしょうがいない、と合理化するならば他の道もあります。部活の子ども全てを大人にすると言うならば、部活の顧問でも可能です。特別苦しんでいる子どもに徹底的に寄り添うことも出来るでしょう。でも、目の前にいる子どもの一人も見捨てず、大人にするという実感を毎日感じること、それは『学び合い』しかありえません。教師は毎日、全ての子どもの前に立ちます。それに恥じない毎日を過ごせるのです。
もう一つあります。現実の毎日は、思うように行かない毎日です。社会が悪い、校長が悪い、保護者が悪い、あの子どもは駄目だ、と合理化したくなる罠はいたるところにあります。でも、一度でもその罠に捕まえられれば、どんどん腐っていきます。
国会議員でもない、首相でもない、我々が、現実の中で苦しんでいる子どもや同僚に目を背けず、かつ、自信の無力感にうちひしがれないようになるためには、少しでも改善の兆しが見え、毎日の営みの先に光が見えるものでなければなりません。私は、日本中の人が幸せになると言う妄想が、現実としか見えません。
個々の問題、個々の人間関係・・・。そんなものを離れて、これからの人生を誇り高く生きるためには、大義は我になりと信じられるものが必要だと思います。そして、正確に言えば、大義は我々にあるのですから、一人で背負わなくて良いのです。
そのレベルで、毎日、個々の問題を相対的に見ようと思っています。