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2009-11-17

[]難しい 22:24 難しい - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 難しい - 西川純のメモ 難しい - 西川純のメモ のブックマークコメント

 アップしてから思いました。以下の文章は誤解を生じるだろうな。きっと「切ること」を合理化している、と思われるだろうな、と思います。だから、消した方が良いかな、とも思いましたが、やはり残しました。

 集団の管理者、それが教師の仕事なんです。

[]一人も切らない 22:15 一人も切らない - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 一人も切らない - 西川純のメモ 一人も切らない - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今回の九州ツアーで言い続けたこと、それは「一人も切らない」です。しかし、それを言い続けた私は、高校教師の時は「切り続けた」。そして、重要なのは『学び合い』を知ってからも一人を「切り」ました。当然、ゼミ生は「切らない」ように必死に頑張りました。最後まで私に「切らない」ように主張しました。でも、私は「切り」ました。そして、ある方からはそれは『学び合い』としてはおかしいと言われました。でも、私は「切る」ことは正しいと直感で感じ、管理者として判断しました。私の直感と正しさを、その時点では正確に言えませんでしたが、今は言えます。

 「一人も切らない」の主語を教師と考えてはいけないと思います。そう考えれば、教師は際限のない泥沼に陥ります。「一人も切らない」の主語は、集団です。教師は「一人も切らない集団」を諦めない、の主語です。一人も切らない、ということを教師が責任を負えるわけありません。

 ただし、おそらく大学教師という特殊な環境の場合、ある限界が生じます。それは、その集団の数が少ないならば、「一人も切らない」という主語を教師の代わりに、特定の数人に負わせてしまう危険性があります。一般の小中高の先生の場合は、集団の数は数十人でしょう。僻地校であっても、異学年集団を形成できれば、かなりの集団を形成できます。ところが、国立大学の大学教師の場合は数十の集団を安定して形成できるかと言えば、そりゃ無理だ。

 でも、「この無理だ」という合理化が行きすぎれば、元の木阿弥になります。でも、切るとしても妥当なレベルと、行きすぎのレベルとを判別する方法があります。それは「切った」後に分かります。妥当なレベルの場合は、切った後も集団は凝縮力を持ちますが、行きすぎれば切った後に崩壊します。なぜなら、安易に切った集団の構成員は、「次は自分だ」と思い始め、「この集団に所属しても安心は得られない」と判断するからです。ところが、ぎりぎりまで藻掻いた集団はそのような不安は生じないからです。

 「一人も切らない」、このことの主語を教師と考える人は少なくありません。そして、美談として語られます。しかし、その結果として教師を辞めた人がいます。そして、それが美談となります。そりゃ違う、と私は思います。「一人も切らない」このことを目指して、最後の最後まで教師を続けた人こそ美談です。私は、「一人も切らない」それを出来なくて、大学教師に逃げた人間です。だから、「一人も切らない」ことを目指して、最後の最後まで教師を続けられる人が増えるようお手伝いをしています。それが私の贖罪です。

追伸 このことに関して学術論文を書いております。本当に、ありとあらゆることを研究済みです。

辺土名智子、西川純(2004.11):中学生の教科学習への参加構造と学びの関連性、臨床教科教育学会誌、臨床教科教育学会、2(1)、29-37