■ [大事なこと]悩み
ある同志からメールが来ました。返信に書こうと思ったこと、実は多くの同志に分かって欲しいことだと思い、ここに書きます。
『学び合い』は強力です。そして、それを私は強調します。でも、『学び合い』をやれば悩まなくなるかと言えば、そんなことはありません。おそらく、人間関係は『学び合い』以前に比べれば格段に改善されるでしょう。ちょいと時間差はかかりますが、学力も『学び合い』以前に比べれば高くなります。少なくとも低くはなりません(断言。下がったとしたら『学び合い』をしていません。)。おそらく、多くの同志はそれを感じています。では、それでは悩まなくなるか?そんなことはありません。以前より、喜びを多く得ますが、悩むことも多いと思います。
でも、悩むべきものを悩んでいるのです。今まで目を背けていた、事実を目の前に突きつけられます。また、今までは説明しなくても良いことを説明しなければならなくなります。大変でしょうね。では、『学び合い』をやめればどうなるか?おそらく、気が楽になるかも知れません。でも、それは自分の精神衛生(それも短期的)に過ぎず、子ども達の悩みはそのままです。そして、それはジワジワと自分の誇りを傷つけ、蝕みます。
悩んでいる自分を、第三者の目で見て下さい。成長しているはずです。が、一人で悩むのは大変です。一緒に悩みましょう。一緒に悩めば、乗り越えられます。ね。
追伸 ダイエット法に、毎日、体重計に乗る、というものがあります。『学び合い』って、何か、それに近いものを感じます。
■ [大事なこと]シンプル
私はシンプルな『学び合い』を提案しています。理由はいくつかあります。
第一に、それが簡単だからです。『学び合い』と従来型をタイムシェアリングでやったり、従来指導型『学び合い』をやったりするのであれば、テクニックの併用は必須です。でも、純粋な『学び合い』をやるのであれば、今までのテクニックの併用は障害になる場合が多いと思います。つまり、下手に従来のテクニックを併用すると、失敗するとテクニックを加えるという対応をします。結果として、いつの間にか、『学び合い』的に見える、完全な従来型指導になるからです。
第二に、世の中の教師が全て、うまい課題設定を出来たり、子どもの話を拾えたりするわけではないからです。下手にやるより、そのレベルは子どもに任せる方が良い。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」です。例えば、「課題設定は大事だ」と思って解決できるような方ならばそれをやればいい。また、「全員テスト80点以上」という以上の目標設定が出来る方ならばそれをやればいい。また、子どもの言動を活かした可視化を、子ども達の依存心を起こさずに2ヶ月以上続けることが出来る方ならばそれをやればいい。でも、そんなこと出来る人は多くはありません。
私は今までに千人弱の人の『学び合い』のお悩み相談を受けています。この事例の数は圧倒的なものだと思います。そして、その多くの方は上記のことを悩んでいるのです。もちろん、私がその学校の同僚で、その先生の置かれている状況を理解し、手本を実際に見せられる状態だったら別の手だてもあるでしょう。でも、私は限られたメールのやりとりの中でサポートしているのです。だから、その中でそのような先生方に『学び合い』の手ほどきをするとしているから、シンプルなことを提案しているのです。だから、同僚として伝えるならば、シンプルに限る必要性はありません。事実、上越の学校で『学び合い』を伝える場合は、かなりのバリエーションを加えたアドバイスをします。
さて、以上は導入段階、充実段階までのことであって、発展段階は各人がどのように発展させても結構だと思います。さらに、本質的な解決は、『学び合い』の教師のネットワークが形成され、テキストではなく継続的な対話によって『学び合い』が伝えられる文化の形成だと思っています。
でも、「私」の場合はそうなっても、さらにシンプルにすることを願います。これは私の志向性なのだと思います。理由は、その方が美しいと感じるからです。
西川ゼミでの『学び合い』の十数年間の研究は、この私の美的感覚が基本となっています。私は理系で生物物理を専攻しました。それ故、複雑なものの中にシンプルなものを見いだすことを美しいと感じます。この十数年間の中で、今まで教師が後生大事にしていたものを吟味し、それをどんどんそぎ落とすことをやっていました。その基本は、子どもは有能であるという確信です。
十年前も子どもは有能であると考えていましたが、その信頼感は限定的でした。だからテクニックが含まれていた。それは5年前もです。だから、今の私は5年前、10年前の自分を笑えます。なんて愚かなのだと。そして、5年後の私は、今の私を愚かと笑うでしょう。私が従来指導型『学び合い』と言っているのは、実は過去の自分の姿なのです。そして、5年後は、今の私が従来指導型『学び合い』なのです。
我々が研究する以前から『学び合い』の考え方に基づく教育をやった先生は少なくなかったと思います。だって、『学び合い』の考え方自体は、ごくごく当たり前ですから。そして、今から6、7年ぐらいまでの我々の『学び合い』は、それらの優れた実践者の実践を整理した性格の研究が多かった。でも、それ以降は、現場の方々の実践を乗り越えるようになりました。理由は、現場の常識(圧倒的大多数は、正しいことです)に囚われるからです。それがために、子どもが有能であると思ったとしても、あるレベルを超えると、子どもは無理で教師の支援が必要であると考えはじめます。私もそのような常識に囚われていました。しかし、子どもを信頼し、シンプルに純化することが美しいと感じているので、それを乗り越えました。
高校生の夏休みの自由研究のテーマは、「ノーベル賞をとる」の一言を与えるというのが私の夢の一つです。おそらく、多くの同志は「何を戯言」と思うかも知れません。でも、私の中にある「無理だ」という常識以上に、それが実現できたら美しいという気持ちの方が大きいのです。現在、同志が実践している『学び合い』は多くの人には「何を戯言」と思われています。でも、それが美しいと思う人が過去にいたから、それが我々の中で常識になりつつあるのだと思います。
少なくとも研究者は常にフロントランナーであり続けなければなりません。切り開いた道を広げ、舗装する方は、私以外に必ずいます。だから、非常識であると思われることは、ある意味、賞賛であるとも言えます。あははは