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2010-06-01

[]視点 18:32 視点 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 視点 - 西川純のメモ 視点 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日、あるゼミ生と話して、とても嬉しかった。

 大学院の授業で、ある授業のビデオを見たそうです。その授業では、活発に発言する子どもの発言が吟味されています。でも、そのゼミ生は、「発言しない子」の方に目が向いたそうです。それが嬉しい。

 教科教育の授業研究では、素晴らしい発言をする子どもを着目します。なぜか、それは、その教科特有の素晴らしさを分かる子どもを増やしたいと思っているからです。例えば、封建制度の特徴や、ある図形問題を解く視点の多様さです。それらのことが分かる子どもが、授業前には0人だったのが、10人になった、そのことを大事にします。

 でも、『学び合い』では一人も見捨てないことを大事にします。その教科の専門家からは、「そんな程度」と思われるレベルであったとしても、それが全員達成したか否かに着目します。でも、これは本当は当たり前のことだと思います。だって、教師の仕事は、指導要領に規定されている国民全員が達成すべきことを、確実に国民全員が達成することなのですから。どう考えても「封建制度の特徴や、ある図形問題を解く視点の多様さ」のレベルではありません。そして、指導要領を見れば、そのレベルを求めてはいません。

 そして、それ以前に、子どもが学校で学ぶ意義は何か、それに応えねばなりません。それ以前に、学校にいる時間が苦痛に満ちたものではあってはいけません。どう考えても、クラスの中には分かる子がいて、先生と盛り上がっているが自分にはチンプンカンプンが楽しいわけありません。そして、それが1日6時間、週5日間続くとしたら、それは民主国家では許されない拷問です。

 『学び合い』をするか否か、それは個々の職場の問題です。でも、見捨てられている子どもに目が行く、それだけは絶対に学んで欲しいと願います。