■ [大事なこと]言っていること、やっていること
多くの教室は数人の子どもの集団から形成されています。そして、同じクラスで1年を過ごしても殆ど会話のない子が大部分で、全く会話のない子もいるという状態ではないでしょうか?その中で『学び合い』の最初の語りを教師はします。当然多、「何でそんなことまでしなければならないのか?」という反応をする子は少なくありません。それを乗り越えるためには何度も語らねばなりません。そしてそれが成功するか否かは、どのように語るかではなく、それを本当に信じているかいないかにかかっています。
クラスの『学び合い』だけではありません、学年を越えた集団や学校を越えた集団の『学び合い』を形成するためには、「何でそんなことまでしなければならないのか?」という反応は当然起こり、それを乗り越えるには、それを信じているかいないかにかかっています。それだけではありません、同志の中には「日本を変えるんだ」ということを求めている方も少なくないのです。それを実現するには、それを信じているかいないかにかかっています。
ここまでは、すんなりと分かった方に問いかけます。我々は子どもに語っていることを本気で信じているか?信じているならば行動に表れているはずです。では、我々はどの程度を「みんな」と考えているでしょうか?そして、どの程度の「みんな」のために何かをしているでしょうか?自分の学校やクラスだけのことを考えているのではないでしょうか?その姿は、自分が分かれば良いと思っている子ども、自分の仲良しグループが分かればよいと持っている子どもとどこが違うでしょうか?
私は日本をパラダイスにするんだということを標榜しています。そしてそれに矛盾のない行動(ただし、家族を犠牲にしない範囲内)し続けている自信があります。もし、私が標榜していることと、行動に矛盾が有れば、それは直ぐにバレます。何よりも最初に、西川ゼミのゼミ生にバレます。そうなれば、ゼミ生に影響力を失います。そうなれば、私の大学職員としての基礎が崩れます。そしてそれは私にとってデメリットです。これは全国の同志に対しても同じでしょう。つまり、私は日本をパラダイスにするという荒唐無稽・噴飯もののことを標榜し、それと矛盾のない行動をすることが、リアルにメリットがあると「利己的」に信じられます。だから、続けられるのです。
ちょいと長いですが、我がゼミの目標としてHPに公開している全文をアップします。この目標をゼミとして課しています。そして、それに矛盾のない行動を自らにも課しています。このより広い「みんな」のために何かをし続けることが自らのメリットに繋がることは非常に分かりづらいようです。でも、私の知る限り、このことの理解と、その方のクラスにおける実践の質の高さには、明らかに相関関係があります。「教科書○ページから○ページ」程度の課題で『学び合い』を実現するのには関係は薄いかもしれません。しかし、それを越えたとてつもない課題を実現する集団作りには、その人の志が問われます。そして、それはかつてどのような行動をしたかではなく、今、どういう行動をしているか、つまり、今、何を信じているかによって決まります。
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本研究室の目標を「自分の心に響き、多くの人の心に響く教育研究を通して、自らを高め、教育を改善しよう」としました。
おそらく皆さんの本当の希望は「自分の心に響き、自らを高め」であると思います(単に修了・卒業したいレベルの人は、西川研究室に所属しよう何て思いませんから)。実は私もそうです。しかし、そのレベルを超えた目標を、研究室の目標として掲げることは重要だと考えています。
世の中には倫理学というのがあります。大学生の頃、それを読みあさった時があります。でも、カント、ヘーゲル、西田は全く分かりませんでした。相対的に分かりやすかったのは和辻です。でも、それでも分かりませんでした。それいらいずっとご無沙汰でしたが、「利己的なサル他人を思いやるサル」という本はどんな倫理学の本より面白く、ためになりました。それによれば、サルにおいても倫理的と思われる行動が見られます。そして、その行動が発生する理由は、その行動によって間接的に利益を得るからです。つまり、弱い仲間を助けたサルは、その群れの他のメンバーから「お返し」が来るんです。なぜ、そんな「お返し」をするかといえば、自分が弱い立場になった時の「保険」みたいなのものです。カント、ヘーゲル、西田のように、どっかに純粋無垢な「善」があるように書かれるのではなく、生々しく、かつ、凄く納得出来るものです。我々は、学び合う能力は本能の中にあると考えています。だから、ゴチャゴチャ言わなくても、自然に発生するものだと信じています。上記の知見は、教師がゴチャゴチャ言わなくても、自然に助け合いが起こるであろうと期待出来ることを証明するものだと思います。
しかし限界があります。別な猿学者の「ケータイを持ったサル」という本によれば、サルが自身の群れと感じる範囲は極めて狭く、基本は親兄弟で、広がっても普段見知っている集団を越えることは無いそうです。そして、現代の「ひきこもり」や「傍若無人の若者」は、人間の本能の中に組み込まれた「群れ」の範囲がサル並だと考えると、至極当然に解釈出来るとしています。おそらく、これは若者に限らず、人間全般の本能の限界と考えるべきなのでしょう。例えば、年配のおばちゃんが、人の迷惑考えず大声を出しているのは、自分が話している以外の人を、「群れ以外」と分類し、人と認識していないからです。
私はサルと同じように、自身の損得と、社会の損得自身を冷静に分析し、社会の損得に矛盾しない自分の損得を設定することは「得」だと思います。つまり、みんなを助けるという社会的要請に応えることが自分の得になっていることは、サルと同様に人間でも正しいと思います。ただし、人間の本能に組み込まれている「みんな(もしくは群れ・社会)は、サルと同様に親兄弟、もしくは見知った狭い集団レベルが限界なのだと思います。教師の例で言えば、せいぜい自分の学校の職員集団レベルで、それを越えた集団を群れと認識することは困難で、従って、郡市レベル、県レベル、日本レベルの集団に対する倫理的な行動をすることは困難なのだと思います。それを越えられるのは、本能ではなく、教育によらねばなりません。
私の大学院の同級生に「教材レベル」の修士論文を書いた人がいます。修了した時に、「お前が作った教材を お前自身が使うの?」と聞きました。彼の返答は「使わない」とさばさばと答えました。つまり、彼にとっての、その教材は自分が修了するため「だけ」の意味しかありません。仮に、自分が使ったとしても、それだけでは、自分のため「だけ」の意味しかありません。ただし、これは教材レベルの研究に限りません。もし、自らが2年間かけてなしたものを自らが使わないならば・・。仮に、自分は使うとして、それを他の人に知ってもらえないならば・・・。私の知る限り、2年間の研究が終わったとたんに、「思い出」の中に死蔵される研究が多すぎるように思います。そして、そんな人は「損」だと思います。
私には、自分のため、家族のため、そして自身の狭い群れである西川研究室のためという、相対的に狭い範囲の目標があります。しかし、同時に「専門職大学院のため」、「上越教育大学のため」、「学会のため」、「地元教育界のため」、「日本の教育界のため」等々の様々なレベルの目標があります。そして、それぞれに矛盾が生じないよう、相互に関連づけています。そのような多層的な目標を持つため、様々な人とリンクを持ち、かつ、その援助を得ることが出来ます。その結果、とても「得」をしています。
一方、比較的狭い範囲の群れのための目標しか持たない人もいます。人それぞれですから、完全否定するわけではありませんが、「損な生き方だな~」と思います。そんな「自分」だけの視点でしか捉えられないならば、結局、周りの協力も限られたものです。色々な場で、短期的には要領よく立ち回っているため、長期的には損をして、そのことに気づいていない人を少なからず見てきました。要領よく「美味しい仕事」だけをかっさらって、「大変な仕事」をうま~く逃げる、そして口先だけは当たりがいい人っていますよね。そういう人って、本気でそれでOKだと思っているようです。でも、ちょっとの期間つきあえば、そのような人の「底」が見えます。そうなると、そういう人とのお付き合いは要領よく避けます。だって、そんな人とつきあうことは「損」ですから。
以上の理由から、本研究室の目標を「自分の心に響き、多くの人の心に響く教育研究を通して、自らを高め、教育を改善しよう」としました。是非、皆さんの中で、この目標を基に、多層的な目標群を設定して欲しいと思います。