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2010-08-15

[]補足 20:57 補足 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 補足 - 西川純のメモ 補足 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 古典を現代文にしても、分からないことはあります。その当時の常識、そして風俗が分からないと意味不明なところがあります。実は古典の専門家は、そこが勝負だと私は思うのです。

[]指導要領(国語17:32 指導要領(国語) - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 指導要領(国語) - 西川純のメモ 指導要領(国語) - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日のメモに対して国語を専門とされる方よりコメントをいただきました。ご指摘は大事なので、メモにて書くことにしました。ただし、このメモに対しては国語の専門家の方にはご不快に思われるかもしれません。まず、謝ります。すみません。私は国語の専門家ではありません。それを自分で理解した上で書いたのです。その点はご理解下さい。

 論点は二つです。第一は、国民が学ぶべきものを定めるのは誰か?ということです。第二は、国語とは何かです。

 論点の第一について。我々が他人の子どもに何かを課す権限はどこから生じているのでしょうか。それは教育基本法、学校教育法、教育公務員に関する法律、そして指導要領に基づいています。それらは不備があるとしても、それらは民主的に定まった方の手続きに則っています。そして、それに基づき行政は執行し、司法はそれを支持しています。その教員が指導要領を否定しては、自らのよってたつ全てを否定することになります。

 あたりまえですが、何人といえども、方の手続きを超えた自己の判断で、法を曲げてはいけないと思います。指導要領を読めば、教師に広範囲な裁量権を与えています。現場の一人一人がそれを実現できないとしたら、それは指導要領の問題ではなく、文部科学省の問題ではなく、都道府県以下の教育委員会や校長が原因であることが圧倒的に多いと思います。(文部科学省はその手の責任を負いたくないため、非常に慎重です。是非、関係する法律や省令を読むと良いですよ)。

 従って、何人といえども指導要領で規定したことはやらねばなりません。規定していない裁量の範囲では自由にやって良い。ただし、それは学校長と保護者と学習者の理解を得る必要があります。どんな教師も、それを超えた権力を与えられていません。

 次に論点の第二です。私は国語の専門家ではありません。国語の専門の方が、国語がどのような教科であり、何を学ぶべきかを研究を深めるのは当然だと思います。が、国語の専門家が全員で一致したから、だから教えるべきだと定まるわけではありません。国語の専門家以外の人も納得させる必要があると思います。(ましてや国語の専門家の人が一致しているとは思えないのですが・・・)という意味で、私が疑問を呈することは許されると思っています。

 以下では、私が国語で学ぶ必要が何故なのか理解できない部分です。もちろん、その価値を全面的に否定するわけではありません。おそらく、日本人の中にはそれを学んだ方が良いと思われるひとは少なくないし、一部は過半数であると思います。でも、万人すべからく学ぶべきだと強いられる必然性が分からないのです。

 私は何故、書き順を学ぶのか分かりません。書き順が関係するのは毛筆の時です。さて、この一年間で毛筆で書いたことが何回あるでしょうか?

 私は古文の文法を学び、古文を読む必要性があるのか分かりません。古典文学が多くのことを国民に教えることは私は納得します。また、どんな国民も共通して理解する古典を持つべきだと言うことも納得しています。私が納得できないのは、それを古語で学ぶ必要があるか?ということです。徒然草や方丈記などは古語でごく一部読むのではなく、現代文で全編を学ぶべきだと「私」は思います。

 私は現在の国語が読みに拘りすぎていると思うのです。国語の先生の研究会の講演に参加したときです。それは異様でした。講師の人は自分の用意したA3版の数十ページの資料を読み上げているのです。その人の視線は、殆ど聴衆には向かず、そのテキストに注がれています。聴衆も配布されたテキストに視線が注がれ、講師には視線が殆ど行きません。それを見ながら、国語がコミュニケーション教科というのは違うと確信しました。

 以上のことから、国語の専門家ではない私は、国語はいったいどんな教科なのか本当に分からないのです。教えていただければ、ありがたいと思います。もちろん、専門外の人に分かる言葉でです。

 ちなみに『学び合い』では、学校教育の目的とは、「多様な人と折り合いをつけて自らの課題を解決することを学ぶ」と考えています。だから、内容に拘らないので、指導要領でも何でもOKなんです。そして、指導要領は法の手続きによって定まったものであり、専門外の私にとってはなかなか良いこと書いてあると感じるのです。

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20011116/1173072388

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20090128/1233101176

[]方針 06:41 方針 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 方針 - 西川純のメモ 方針 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 同志のメモ(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/makine45/20100814)を読みながら、その補足をしたくなりました。

 良いものは取り入れることは良いことです。でも、前提があります。それは基本方針と、それを実現する手段とを峻別すべきです。教師は、単純な判断基準をごく少数持つことが必要です。複雑な基準(具体的には文字にすると2行以上かかかる基準)であると、判断に時間がかかったり、最悪の場合は判断不能になったります。基準が多数あると、その基準の間で矛盾が生じます。結果として判断に時間がかかったり、判断不能となったります。

 基本方針は意識的にしない限り出来ません。教育実践に理論(方法論ではなく)が必要な理由はここにあります。

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20040525/1172818596

追伸 言うまでもなく、実践を具体的に指し示すことが出来ない理論は、理論ではありません。

[]方法と目的 06:22 方法と目的 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 方法と目的 - 西川純のメモ 方法と目的 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 授業の組み立て方に関して、『学び合い』と従来指導型との違いがあります。従来指導型の場合は、教科書をざっと見る程度です。そして、多くの時間はどのように「流す」かというところに時間をかけます。少なくとも、かつての私はそうでした。

 最底辺の高校で物理の授業をやるのは大変です。彼らの集中力は最大5分間程度と見積もっていました。だから、授業を十ぐらいに区分けします。その中には授業とは全く関係ないおもしろ話を2~3を組み込みます。そして、彼らの平均的な実力(まあ、中の下にターゲット)に合わせたドリル学習を組み込みます。そして、大学院で学んだ欧米のカリキュラム改革で開発された教材や、明治前半に開発された教材を組み込み、そして、話術・人いじりで話を組み立てます。かなりの時間、どんな話で笑わせ、泣かせるかを考えていました。明らかに、何を学ぶがかではなく、どのように1時間を成立させるかに時間をかけました。理由は簡単です。私の子どもたちは、分からない、つまらないということを素直に強力にアピールする子どもたちです。その子たちに物理を教えるのには、テクニックのマシンガンが必要なのです。

 ところが、『学び合い』の場合は、子どもたちが授業を分からせ、楽しませてくれるので、そのあたりにエネルギーを費やす必要がありません。一方、何を学ぶかが勝負となります。だから、ノウハウ本ではなく、指導要領をちゃんとよむようになります。ちゃんと読むと、あれはなかなか良いこと書いてありますよ。